あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

2023-01-01から1年間の記事一覧

この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである(ヨハネ11:1~4)

(今回は、ラザロの病をとおしての、神とキリストの栄光に関する預言、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・11章の1~4節より 『さて、ひとりの病人がいた。ラザロといい、マリヤとその姉妹マルタの村ベタニヤ(=エルサレムのやや東にある…

ヨハネはなんのしるしも行わなかったが、ヨハネがこのかたについて言ったことは、皆ほんとうであった(ヨハネ10:40~42)

(今回は、ヨハネがバプテスマをさずけていた土地でうけいれられるキリスト、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・10章の40~42節より 『さて、イエスはまたヨルダンの向こう岸(=死海の北のヨルダン川の東側)、すなわち、ヨハネが初めに…

もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい(ヨハネ10:37~39)

(今回は、神のわざをおこなうことで、神がご自分のなかにおられるのを証ししているキリスト、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・10章の37~39節より(以下はキリストを殺そうとしている者たちへの、キリストのおことばです) 『もしわた…

あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか(ヨハネ10:34~36)

(今回は、イエスが、ご自分を神と等しい存在であるとのべても、神への冒涜(ぼうとく)にはならない、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・10章の34~36節より 『イエスは彼らに(=”あなたは自分を神としている” という理由で殺…

わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか(ヨハネ10:31~33)

(今回は、イエスを石で殺そうとするユダヤ人、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・10章の31~33節より 『そこで(=イエスがご自分を神と等しいものとする神性宣言をしたので)ユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあ…

わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない(ヨハネ10:27~30)

(今回は、信仰者にあたえられた永遠のいのちはとりけされない、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・10章の27~30節より(以下はキリストのおことばです) 『わたしの羊は(=信仰者は)わたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知…

わたしの父の名によってしているすべてのわざが、わたしのことをあかししている(ヨハネ10:22~26)

(今回は、神のみわざが、イエスがキリスト(救い主)であるのを証明している、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・10章の22~26節より 『そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた(=このまつりは紀元前164年に、セレウコ…

それは悪霊に取りつかれた者の言葉ではない。悪霊は盲人の目をあけることができようか(ヨハネ10:19~21)

(今回は、イエスの話をきいて分裂する人々、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・10章の19~21節より 『これらの言葉を語られたため(=ご自身をひつじかいにたとえ、また神からさずかった権威について語られたため)、ユダヤ人の間にまた…

父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである(ヨハネ10:17~18)

(今回は、罪のあがないのために命をすてて、それを再びうける御子(みこ)としての権威、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・10章の17~18節より 『父は(=神は)、わたしが自分の命を捨てるから(=世の人々の罪をあがなって永遠のいの…

わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない(ヨハネ10:16)

(今回は、イスラエルの民だけでなく、異邦人も神の救いへとみちびくキリスト、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・10章の16節より(以下はキリストのおことばです) 『わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある(=イスラエルの民だ…

わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる(ヨハネ10:11~15)

(今回は、信仰者のためにいのちをもすてられるキリスト、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・10章の11~15節より 『わたしはよい羊飼である(=民(ひつじ)を神の救いへとみちびく者(ひつじかい)である)。よい羊飼は、羊のために命を…

わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう(ヨハネ10:7~10)

(今回は、救いへと通じている門であるキリスト、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・10章の7~10節より 『そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに(=おもにユダヤ人指導者に)言っておく。わたしは羊の門である(=イスラ…

羊はその声を知っているので、彼について行くのである(ヨハネ10:1~6)

(今回は、信仰者はキリストの声をききわける、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・10章の1~6節より(以下はキリストのおことばです) 『よくよくあなたがたに(=おもにユダヤ人指導者たちに)言っておく。羊の囲いに(=神の…

もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある(ヨハネ9:40~41)

(今回は、神への畏(おそ)れがなく、おごりたかぶっているユダヤ人指導者たち、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・9章の40~41節より 『そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが(=ユダヤ人指導者たちが)、それを聞いて(=見え…

わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである(ヨハネ9:39)

(今回は、世にこられたキリストによって、救われる者とほろびる者とがわけられる、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・9章の39節より 『そこでイエスは言われた(=キリストへの信仰にいたった盲人だった男に言われた)、「わた…

あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である(ヨハネ9:35~38)

(今回は、神のみわざにより、盲人だった男がキリストへの信仰にいたる、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・9章の35~38節より 『イエスは、その人が(=イエスが目をいやした男が)外へ(=迫害をうけ、ユダヤ人の共同体から)…

もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです(ヨハネ9:32~34)

(今回は、迫害を覚悟で、自分におこったことを訴えつづける盲人だった男、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・9章の32~34節より(以下は盲人だった男のセリフからです) 『「生れつき盲(もう)であった者の目をあけた人があるということ…

神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞きいれて下さいます(ヨハネ9:28~31)

(今回は、迫害をおそれずに、堂々と自分の考えを語っている盲人だった男、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・9章の28~31節より 『そこで彼らは(=イエスの弟子になりたいのかと言いかえされたユダヤ人指導者たちは)彼を(=盲人だった…

あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲であったが、今は見えるということです(ヨハネ9:24~27)

(今回は、迫害をおそれずに、イエスとの体験のままを語っている盲人だった男、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・9章の24~27節より 『そこで彼らは(=ユダヤ人指導者たちは)、盲人であった人をもう一度呼んで言った、「神に栄光を帰す…

それは、もしイエスをキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに、ユダヤ人たちが既に決めていたからである(ヨハネ9:21~23)

(今回は、イエスをキリスト(救い主)とみとめる者への、ユダヤ人たちによる迫害、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・9章の21~23節より(以下は盲人だった男の両親のセリフからです) 『「また、だれがその目をあけて下さったのかも知り…

そこで彼らは、もう一度この盲人に聞いた、「おまえの目をあけてくれたその人を、どう思うか」。「預言者だと思います」(ヨハネ9:17~21)

(今回は、目がみえなかった男の信仰が、徐々にキリストに向きつつある、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・9章の17~21節より 『そこで彼らは(=ユダヤ人指導者(パリサイ人)たちは)、もう一度この盲人(もうじん)に聞いた…

しかし、ほかの人々は言った、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」(ヨハネ9:15~16)

(今回は、目がいやされた人のできごとを聞いて、分裂するユダヤ人指導者たち、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・9章の15~16節より 『パリサイ人(=キリストを敵視しているユダヤ人指導者)たちもまた、「どうして見えるようになったの…

イエスというかたが、どろをつくって、わたしの目に塗り、『シロアムに行って洗え』と言われました(ヨハネ9:10~14)

(今回は、人々と目がいやされた人のやりとり、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・9章の10~14節より 『そこで人々は(=目がみえるようになったのをうけいれられずに、別人だとうたがっている人々は)彼に言った、「では、おまえの目はど…

シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい(ヨハネ9:6~9)

(今回は、目のみえない人に、唾(つば)のどろを塗られるキリスト、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・9章の6~9節より 『イエスはそう言って(=この人の目がみえないのは、神のみわざが彼にあらわれるためであると言って)、地につばき…

本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである(ヨハネ9:1~5)

(今回は、神のお考えのもとに神のみわざがあらわれる、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・9章の1~5節より 『イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人(もうじん=目が見えない人)を見られた。弟子たちはイエスに尋…

アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである(ヨハネ8:57~59)

(今回は、キリストがくりかえしなさる神性宣言、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・8章の57~59節より 『そこでユダヤ人たちはイエスに(=実際にアブラハムに会ったかのように話すイエスに)言った、「あなたはまだ五十にもならないのに…

あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ(ヨハネ8:55~56)

(今回は、信仰によって、救いがもたらされる未来をも確信して見ることができる、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・8章の55~56節より(=以下はキリストのおことばです) 『あなたがたはその神を(=まことの神を)知っていな…

わたしに栄光を与えるかたは、わたしの父であって、あなたがたが自分の神だと言っているのは、そのかたのことである(ヨハネ8:53~54)

(今回は、キリストに栄光をおあたえになるのは神である、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・8章の53~54節より(=以下はユダヤ人のセリフからです) 『あなたは(=自分を信じれば死をみることはないなどというイエスは)、わ…

もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう(ヨハネ8:50~52)

(今回は、くりかえし救いにあずかる方法をお語りになるキリスト、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・8章の50~52節より(=以下はキリストのおことばです) 『わたしは自分の栄光を求めてはいない。それを求めるかたが(=キリストのため…

わたしは、悪霊に取りつかれているのではなくて、わたしの父を重んじているのだが、あなたがたはわたしを軽んじている(ヨハネ8:48~49)

(今回は、イエスを侮辱(ぶじょく)するユダヤ人、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・8章の48~49節より 『ユダヤ人たちはイエスに答えて言った、「あなたはサマリヤ人で(=神の民のわたしたちに、悪魔を父としているなどというあなたが…