(今回は、罪のあがないのために命をすてて、それを再びうける御子(みこ)としての権威、についてふれたいと思います)
『父は(=神は)、わたしが自分の命を捨てるから(=世の人々の罪をあがなって永遠のいのちをもたらすために、十字架での死をとげるから)、わたしを(=神のみこころどおりのキリストを)愛して下さるのである。命を捨てるのは(=ご自分から死をとげるのは)、それを再び得るためである(=死からの復活をとおして、人々に死にも打ち勝つ永遠のいのちの存在を知らしめるためである)。だれかが、わたしからそれを(=いのちを)取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり(=イエスはこの世にこられてから一つも罪をおかしていません。それゆえに世の罪をあがなうための、罪に汚(けが)されていない清い血をたもっており、そしてそれを神にささげる御子としての権威をもちあわせています)、またそれを受ける力もある(=世の罪をあがなうという神のみこころを果たし、また世の人々に永遠のいのちへの希望をもたせるための、死にも打ち勝つ御子としての権威ももちあわせています(コリント一15:17))。これはわたしの父から授かった定めである(=罪のあがないのための死と、その死からの復活を世にしめすのが、キリストが神からさずかった役目なのです)』
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(神は、御子であるキリストに、世の罪をあがなうささげものとしての権威と、その死からの復活にあずかる権威とをおあたえになりました。そしてこのさだめのとおりに、キリストは十字架によって人々の罪をあがない、その死から三日目に復活なさいました。この罪のあがないこそが、神がわたしたちにあたえてくださった恵みであり、また死から復活したという事実が、信仰者への永遠のいのちを保証してくださっているのです。どうか一人でも多くの方がキリストを信じますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)