あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である(ヨハネ6:47~51)

(今回は、永遠のいのちをもたらす霊的なパンは、罪をあがなう小羊としての霊的な肉のことでもある、ということについてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・6章の47~51節より(=以下はキリストのおことばです)

『よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には(=イエスがメシア(救い主)だと信じる者には)永遠の命がある。わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は(=出エジプトの際のイスラエルの民は)荒野でマナ(=神がモーセを介して天からあたえたパン)を食べたが、死んでしまった(=腹をみたすだけの物質的なパンだった)。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は(=永遠のいのちをもたらすキリストを信じることで、霊的なパンをたべる人は)、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである(=物質ではなく、人を永遠に生かす霊的なパンである)。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与える(=あなたがたひとりひとりの罪を贖(あがな)って、永遠のいのちをさずけるためにあたえる)わたしの肉である(=ここでは霊的な “パン” が、霊的な “肉” に言いかえられています。この “肉” とは、世の人々の罪をあがなうために、神にささげるいけにえとしての、ほふられた小羊の肉という意味合いをもっています。すなわちキリストは、ご自分が十字架にかけられることで、この小羊としての役目をはたされるのを、先取りするかたちで(=預言として、それもいのちのパンという表現にかさねあわせて)のべておられるのです。ですからここでの肉も、実際に手でうけとる物質的なものではありません。キリストの死後およそ2000年間、信仰者のだれもがうけとっている霊的な肉なのです)』

 

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(ここでのキリストは、まだ十字架にかけられていませんが、このことを意識されて、パンと肉とをかさねあわせて表現しておられます。これまで永遠のいのちをもたらすパンとして語られていたものは、その霊的な意味においては、贖罪(しょくざい)としての肉(=罪をひきうけてくれるいけにえとしての肉)と同義だということです。どうか一人でも多くの方が、キリストの犠牲あってのめぐみに目をむけて、永遠のいのちをさずかりますように。イエス・キリストのお名前をとおしてお祈りいたします)

 

なお贖罪についてくわしく知りたい方は、このサイト内で ”贖罪” で検索をかけて、2022/11/13のヨハネ1:29~31の記事を参照してください。