あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからである(コリント二7:5~9)

※コリント人への第二の手紙、の全文解釈をすすめています。

 

・コリント人への第二の手紙・7章の5~9節より

『さて、マケドニヤ(=トロアス(現在のトルコ北西部)を出て、コリント教会にパウロの手紙をとどけたテトスがいると思われる、ギリシャの北)に着いたとき、わたしたちの身に少しの休み(=安らぎ)もなく、さまざまの患難(=迫害をふくめた苦難)に会い、外には戦い、内には恐れがあった(=とくに手紙をとどけたテトスがあなたたちに歓迎されたのか、また手紙に対するあなたたちの反応などが、気が気でなかった)。しかるに、うちしおれて(=心労しきって)いる者を慰める神は、テトスの到来(=彼との再会)によって、わたしたちを慰めて下さった。(さらには)ただ彼の到来によるばかりではなく、彼があなたがたから受けたその慰めをもって(=あなたたちがテトスを歓迎したこと、またパウロの手紙を真摯にうけとめたうえで、信者としての素直さや労わりをもって、テトスにふるまってくれたことで)、(パウロまでも)慰めて下さった。すなわち、あなたがたが(=パウロに敵対せずに)わたしを慕(した)っていること、(また、これまでの教会内で生じた罪に対して、自分たちが見て見ぬふりをしたり、それをただそうとしたりしなかった態度を)嘆(なげ)いていること、またわたしに対して熱心であること(=パウロとこころを一つにしようとしていること)を知らせてくれたので、わたしの喜びはいよいよ増し加わったのである。そこで、たとい、あの手紙で(=コリント教会で生じた罪への、きびしい叱責をつづったあの手紙で)あなたがたを悲しませたとしても、わたしはそれを(=胸を痛めはしたが)悔いていない。あの手紙がしばらくの間ではあるが、あなたがたを悲しませたのを見て(=一時的に)悔いたとしても、今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからではなく(=悲しんだだけでおわらずに)、悲しんで悔い改めるに至ったからである。あなたがたがそのように(=悔い改めをとおして)悲しんだのは、神のみこころに(=照らしあわせて)添(そ)うたことであって、わたしたちからはなんの損害も受けなかったのである(=あなたたちは、純粋に神と向きあって悔い改めたのであり、今回パウロは、そのきっかけをあたえただけで、なにかの危害をもたらしたわけではありません。このことはあなたたちが、パウロになにかの感情をぶつけずに、神に向かって悔い改めたことこそが、なによりの証拠なのです)』

 

※なお今回は、わたしにとってむずかしいものでした。うのみになさらず、お一人お一人が神とのまじわりをふかめていただければと思います。

あなたがたはわたしの心のうちにいて、わたしたちと生死を共にしているのである(コリント二7:1~4)

※コリント人への第二の手紙、の全文解釈をすすめています。

 

・コリント人への第二の手紙・7章の1~4節より

『愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束(=神がわたしたちのあいだに住み、わたしたちを永遠の家族としてまねいてくれる約束)を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れ(=肉のけがれとは、物質的なものへの欲などがもたらすけがれのことです。霊のけがれとは、偶像などをあがめることで、霊にもたらされるけがれのことです)から自分をきよめ(=キリストをつねにこころにおいて、これらとかかわらないようにし)、神をおそれて(=おそれ敬(うやま)って)全く清くなろうではないか(=罪から離れて、神に従順に歩もうではないか)。どうか、わたしたちに心を開いてほしい(=うたがいを解いて、素直にうけとめてほしい。むしろ教会に入りこんでいるにせ教師たちに従わないでください)。わたしたちは、だれにも不義(=不正)をしたことがなく、だれをも(=その人の人生を)破滅におとしいれたことがなく、だれからも(=金銭なども)だまし取ったことがない。わたしは、(あなたたちを)責めるつもりでこう言うのではない。前にも言ったように、あなたがたは(=パウロが神にあって立ちあげた教会に属しているあなたたち信者は)わたしの心のうちにいて、わたしたちと生死を(=神にあって生きることも死ぬことも)共にしているのである。わたしはあなたがたを大いに信頼し、大いに誇っている。また、あふれるばかり(=あなたたちによって)慰めを受け、あらゆる患難の中にあって喜びに満ちあふれている(=このなぐさめや喜びをうけている理由については、次回につづきます)』

わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう(コリント二6:16~18)

※コリント人への第二の手紙、の全文解釈をすすめています。

 

・コリント人への第二の手紙・6章の16~18節より

『神が(=旧約聖書で(レビ記26:12))こう仰せになっている、「わたしは彼ら(=信者)の間に住み、かつ出入(でい)りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」。だから、「彼ら(=神にではなく世(=サタン)に属している不信者)の間から出て行き、彼らと分離せよ(=キリストを信じることで、聖霊をやどしていただき、世から聖別させて(=神の所有物とさせて)もらいなさい(イザヤ52:11))、と主は言われる。そして、汚(けが)れたものに(=とりわけいかなる偶像にも関心をよせて)触てはならない。触なければ(=聖書の神だけを神とみとめるなら)、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう(=永遠につづく、神の家族の一員とするだろう(イザヤ43:6))。全能の主(=神)が、こう言われる」』

神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である(コリント二6:11~16)

※コリント人への第二の手紙、の全文解釈をすすめています。

 

・コリント人への第二の手紙・6章の11~16節より

『コリントの人々よ。あなたがたに向かってわたしたちの(=キリストの福音や神の教えをつたえる)口は開かれており、わたしたちの心は(=神のしもべとして、愛をもって)広くなっている。あなたがたは、わたしたちに(=パウロたちに原因があって)心をせばめられていたのではなく、自分で心をせばめて(=パウロたちに疑念をいだき、うけいれがたくして)いたのだ。わたしは子供たちに対するように言うが、どうかあなたがたの方でも心を広くして、わたしに応じて(=耳をかたむけ、むきあって)ほしい。不信者と、つり合わないくびきを共にするな(=くびきとは、複数の牛の首に横木をとりつけ、整列させて車などをひかせる道具のことです。要は神を信じない不信者と、同じような思考や行動をとらないようにしなさい)。義(=正義)と不義(=不法)となんの係わりがあるか(=なんのかかわりもありません)。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアル(=邪悪なもの、おそらくサタンの別の呼び方)となんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮(=神が住まわれる場所)と偶像(=いつわりの神をかたどったもの)となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である(=わたしたち一人一人が、霊的なキリストのからだを担っているのです。いわば神が住まわれる、神の宮そのものなのです。なので偶像と一致しているなどはありえません)』

貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている(コリント二6:1~10)

※コリント人への第二の手紙、の全文解釈をすすめています。

 

・コリント人への第二の手紙・6章の1~10節より

『わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない(=ムダにしてはいけません。神の恵みのもとにおかれているのを、つねにこころにおきなさい)。神は(=キリストの身におこることをとおして、わたしたちにも預言として)こう言われる、「わたし(=神)は、恵みの時に(=神がさだめた恵みのときだからこそ)あなた(=キリスト)の願いを(=苦しみの中での祈りを(ヘブル5:7))聞きいれ、救の日にあなたを助けた(=キリストを十字架の死から復活させた(イザヤ49:8))」。見よ、今は恵みの時(=キリストの祈りが神に聞かれたように、いまのわたしたちの祈りも聞きいれられる恵みのときです)、見よ、今は救の日である(=現にキリストも復活させられ、いまこの救いが、わたしたちにもおよんでいるときなのです)。この務が(=この救いにあずかったわたしたちの奉仕のつとめが)そしりを(=いかなる非難も)招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずき(=そむくきっかけ)を与えないようにし、かえって、あらゆる場合に、神の僕(しもべ)として、自分を(=キリストの福音をつたえる者として)人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも(=これらはパウロが実際に経験したものです。こうした苦難にも負けずに、キリストをのべつたえ)、(神のおしえにもとづく)真実と知識と寛容(=こころの広さ)と、慈愛(=慈(いつく)しみ)と聖霊と偽りのない愛と、真理の言葉と神の力とにより(=こうした神の助けをうけながら、そしてまた)、左右に持っている義の武器により(=これは実際に武器をもっているわけではありませんが、神の義にしたがうための剣と盾により)、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博して(はくして=あつめて)も、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが(=一見、永遠の救いなどを説いて、現実離れしているとうけとられもするが)、しかも真実であり、人に知られていない(=相手にされていない)ようであるが、(=しかし実際は関心をもたれて)認められ、(また迫害にあっては)死にかかっているようであるが、見よ、生きており、(囚人として)懲(こ)らしめられているようであるが、殺されず、(自分の身の悲惨な状況に)悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を(=永遠の救いという神の恵みによって)富ませ、何も持たない(=無一文の)ようであるが、すべての物を(=人が神にあって生きるすべてのものを)持っている』

 

※なお今回は、わたしにとってむずかしいものでした。うのみになさらず、お一人お一人が神とのまじわりをふかめていただければと思います。

神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった(コリント二5:18~21)

※コリント人への第二の手紙、の全文解釈をすすめています。

 

・コリント人への第二の手紙・5章の18~21節より

『神はキリストによって(=キリストが、わたしたちの罪の身代わりに十字架で血をながされたことで)、わたしたちをご自分に和解させ(=わたしたちの罪をすべてゆるしてくださり)、かつ和解の務を(=神のために働くことのできるつとめ、福音をひろめるつとめを)わたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ(=神と人が和解する方法を、世にあたえて)、その罪過(ざいか=罪)の責任をこれに(=世に生きるわたしたちに)負わせることをしないで、(そればかりか)わたしたちに和解の福音を(=永遠のいのちをもたらすキリストの福音を、世にひろめるように)ゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして(=福音をひろめる)勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を(=キリストが実現してくれた神との和解を、こころから)受けなさい。神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを(=キリストを十字架上で)罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって(=罪から解放されて)神の義となるため(=神の前にただしい者とされるため)なのである』

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である(コリント二5:16~18)

※コリント人への第二の手紙、の全文解釈をすすめています。

 

・コリント人への第二の手紙・5章の16~18節より

『それだから(=自分のためではなく、キリストのために生きているのだから)、わたしたちは今後、だれをも肉によって(=人間的(肉的)な視点や基準によって)知ることはすまい(=これは裏をかえせば、霊的な視点で(=いわば神のご性質をとおした、神のご視点から見るようにして)知っていこう、ということです)。かつてはキリストを肉によって(=目で見たり、耳で聞いたりした範囲で、そこにともなっている霊的な意味合いには目をむけずに)知っていたとしても、今はもうそのような(=表面的な)知り方をすまい。だれでもキリストにあるならば(=キリストの福音を信じたことで、霊においてキリストと一体になり、その命やご性質を共有しているなら)、その人は新しく造られた者である(=聖霊を宿されて、新生させられた者なのです)。古いものは(=霊が死んだ状態のままにあって、いつかは朽ちる肉体だけで生きている状況は)過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである(=霊的にまったく新しい存在に変えられ、御国に入れる者とされたのです)。しかし、すべてこれらの事は、(自分の力や努力によってではなく)神から出ている』

 

※なお今回は、わたしにとってむずかしいものでした。うのみになさらず、お一人お一人が神とのまじわりをふかめていただければと思います。