あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである(ヨハネ9:39)

(今回は、世にこられたキリストによって、救われる者とほろびる者とがわけられる、ということについてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・9章の39節より

『そこでイエスは言われた(=キリストへの信仰にいたった盲人だった男に言われた)、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである(=キリストを信じて救われる者と、信じずにほろびる者をはっきりとわけるためである。なおここでの “さばき” とは、最後の審判のときにくだす、判決としてのさばきのことではありません。この地上にありながら、救われる者とほろびる者とをわけることを指しています)。すなわち、見えない人たちが見えるようになり(=救い主をもとめているが、これまでだれがキリストなのかわからずにいた人たちが、霊における目がひらいて、キリストのもとにあつまるようになり(=ここでいう盲人だった男のことです))、見える人たちが見えないようになるためである(=自分は神に通じており、救い主がもたらす救いにあずかってしかるべきだと自負している人たちが(=要は見えると思いこんでいる人たちが)、実際は霊の目がひらかれないまま、キリストがだれなのかもわからず、ほろびへとむかうようになるためである(=たとえばユダヤ人指導者たちのことです))」』

 

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(キリストが地上にこられたことで、救われる者とほろびる者とがわけられる、という意味でのさばきがもたらされました。この選別の基準としては、見えないながらもメシア(救い主)をひたむきにもとめているのか、それとも自分は見える者として、救われないわけがないとの思いこみのもと、上辺でしかメシアをもとめていないのか、というところにあるものと思います。どうか一人でも多くの方が、キリストを信じて、神のもとに立ちかえりますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)