あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある(ヨハネ9:40~41)

(今回は、神への畏(おそ)れがなく、おごりたかぶっているユダヤ人指導者たち、についてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・9章の40~41節より

『そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが(=ユダヤ人指導者たちが)、それを聞いて(=見えない人が見えて、見える人が見えなくなると聞いて)イエスに言った、「それでは、わたしたちも盲(もう)なのでしょうか(=イエスが言うところの、いまは見えてないが、いずれは見えるようになって救われる者たちなのでしょうか。このように彼らは、自分たちが救われるのを前提に問いかえしています。なお彼らの本心はというと、いまも見えているし、これからも見えているという自負のもとにあります)」。イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら(=目が見えないなりにメシア(救い主)をもとめて、ひたむきにキリストをさがしつづけていたなら)、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに(=自分たちがメシアに対して盲目であるはずがなく、いつでも救いにあずかれると自負しているところに)、あなたがたの罪がある(=ここには神への畏(おそ)れや、へりくだりがなく、ましてやいま目の前にキリストがいるのに、彼らのかたくなでおごりたかぶった姿勢は、さばきのときまで罪としてのこることになります)」』

 

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ユダヤ人指導者は、自分たちが神へのみちびき手として、多くのことが見えていると自負していました。しかし現にキリストが目の前にあらわれているのに、彼らにはキリストが見えていません。これが見える人が(=見えていると思いこんでいる人が)見えなくなるという意味です。神はこうしたおごった人の、霊的な目をひらかれることはありません。どうか一人でも多くの方が、自分が罪人であるのをみとめて、キリストを信じますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)