(今回は、キリストに栄光をおあたえになるのは神である、ということについてふれたいと思います)
・ヨハネによる福音書・8章の53~54節より(=以下はユダヤ人のセリフからです)
『あなたは(=自分を信じれば死をみることはないなどというイエスは)、わたしたちの父アブラハム(=神の民イスラエルの租)より偉いのだろうか。彼も死に、預言者たちも死んだではないか(=ユダヤ人たちは、イエスが話す霊に関することを、肉(肉体)のこととしてとらえ、過去の偉人も皆死んだではないかと反論しています)。あなたは、いったい、自分をだれと(=どれほどのものと)思っているのか」。イエスは答えられた、「わたしがもし自分に栄光を帰するなら(=いまこうして話していることもふくめて、自分のために栄光(=賞賛や名誉など)をあつめ、それを獲得しようとしているなら)、わたしの栄光は、むなしいものである。わたしに栄光(=子なる神キリストとしての栄光。とくにその一つに十字架の死からの復活という栄光があります(ヨハネ17:1))を与えるかたは、わたしの父(=神)であって、あなたがたが自分の神だと言っているのは(=あなたがたは悪魔を父としているが、それに気づかずに、自分たちの父であり、神であると言っているのは(=思いこんでいるのは))、そのかたのことである』
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(ユダヤ人たちは、イエスの話を理解できていません。そこで自分たちが誇りにしているアブラハムをもちだしたりしていますが、実際はそのアブラハムより偉大なお方がイエスなのです。また彼らはイエスが、自分が目立ちたいために発言しているとみなしていますが、イエスは神への栄光を求めているのであって(ヨハネ7:18)、ご自分への賞賛や名誉には関心をもっておられません。このイエスに神の御子(みこ)キリストとしての栄光をおあたえになるのは神であり、イエスも神におゆだねになっているのです。どうか一人でも多くの方が、キリストを信じて救われますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)