(今回は、信仰者のためにいのちをもすてられるキリスト、についてふれたいと思います)
『わたしはよい羊飼である(=民(ひつじ)を神の救いへとみちびく者(ひつじかい)である)。よい羊飼は、羊のために命を捨てる(=ご自分のいのちよりも信仰者を大事に想ってくださいます。なおこれはわたしたちの罪の身代わりとしての、十字架によるキリストの死を示唆(しさ)しています)。羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人(やといにん=ここではユダヤ人指導者のこと)は、おおかみが来るのを見ると(=自分や民をおびやかすものがくると)、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす(=民におそいかかり、混乱をもたらす)。彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである(=やとい人は賃金だけを目当てに、自分のことを考えています)。わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り(=信仰者の全員を知っており)、わたしの羊はまた、わたしを知っている(=信仰者もまた、イエスが救い主であり、神からの真理そのものであるのを知っています(ヨハネ8:32))。それはちょうど、父が(=神が)わたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである(=神とキリストのご関係がそうであるように、キリストと信仰者も霊において一つとなって、お互いを知りあっています(ヨハネ6:56))。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである(=ご自分のいのちをすてて、十字架にて信仰者の罪のあがないを達成させます)』
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(神は、その聖なるご性質のゆえに、罪をさばかないわけにはいかないご存在です。そして本来なら罪人であるわたしたちが、そのさばきをうけるべきなのです。しかしここで神が愛をしめされて、わたしたちの罪の身代わりに、キリストを十字架でさばかれました。まさにキリストは、わたしたちのためにいのちをすててくださったのです。どうか一人でも多くの方がキリストを信じますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)