(今回は、神のわざをおこなうことで、神がご自分のなかにおられるのを証ししているキリスト、についてふれたいと思います)
・ヨハネによる福音書・10章の37~39節より(以下はキリストを殺そうとしている者たちへの、キリストのおことばです)
『もしわたしが父のわざを(=病のいやしなどの神のわざを)行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても(=あなたがたの判断で、たとえわたしをキリスト(救い主)だと信じられなくても)、わたしのわざを(=神がキリストにおあたえになったわざを)信じるがよい(=見たとおりにみとめるがよい)。そうすれば、父がわたしにおり(=神がキリストのなかにおられ)、また、わたしが父におることを(=キリストが神のなかにいることを)知って悟るであろう(=キリストからでた神のわざをみとめたことが、あなたがたを変える一歩目となって、神とキリストが互いのなかにおられ一つであるのを、神がさとらせてくださるだろう)」。そこで、彼らはまたイエスを捕えようとしたが(=神と自分を等しいものとしているイエスを、神への冒涜をしたとしてとらえようとしたが)、イエスは彼らの手をのがれて(=キリストは十字架のときまでは神の守りのなかにおかれています)、去って行かれた』
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(キリストは、ご自身が神からつかわされた救い主であるのをしめすために、神からのたくさんのわざをおこないました。これらのわざは同時に、キリストをとおして神がはたらかれているのをしめすものでもありました。そしてこれらのキリストからでた神のわざをみとめた者は、神とキリストがきりはなせない関係にあり、一つであるのを悟るようになるものなのです。どうか一人でも多くの方が、神のわざを信じて、イエスが救い主だと知ることとなりますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)