あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである(ヨハネ9:1~5)

(今回は、神のお考えのもとに神のみわざがあらわれる、ということについてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・9章の1~5節より

『イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人(もうじん=目が見えない人)を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが(=これからイエスが彼になさる神のみわざが)、彼の上に現れる(=もたらされる)ためである。わたしたちは(=イエスと弟子たちは)、わたしをつかわされたかたのわざを(=病のいやしなどをふくめた神の救いのみわざを)、昼の間に(=十字架による死をむかえるまでのあいだに)しなければならない。夜が来る(=やがて捕らえられ、十字架によって死ぬことになる)。すると、だれも働けなくなる(=弟子たちのはたらきも、お供させていただいているキリストあってのものです)。わたしは、この世にいる間は(=神からつかわされてこの世にいるあいだは)、世の光である(=救いをもたらす光源としての世の光であられます)」』

 

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(生まれつき目が見えないことに対して、わたしたちは理不尽さをおぼえるかもしれませんが、神はその人にみわざをあらわすために、盲人という立場さえおあたえになることがあるのです。これは神がもたらす永遠のいのちへとつづく救いが、その人が経験してきた苦しみを帳消しにするどころか、はるかに勝ってすばらしいということのあらわれでもあるように思います。どうか一人でも多くの方が、キリストを信じて、永遠の救いにあずかりますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)