あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

あなたがたは、何もわかっていないし、ひとりの人が人民に代って死んで、全国民が滅びないようになるのがわたしたちにとって得だということを、考えてもいない(ヨハネ11:49~52)

(今回は、信仰者とユダヤ人指導者たちとで、異なる解釈ができる神の預言、についてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・11章の49~52節より

『彼らのうちの(=ユダヤ人指導者のうちの)ひとりで、その年の大祭司(=神殿をしきっている最高の職位)であったカヤパ(=ローマ総督によって任命された人物)が、彼らに言った、「あなたがたは、何もわかっていないし、ひとりの人が(=イエスが)人民に代って死んで(=罪人がうけるはずの神からのさばきをうけて。これは十字架を示唆しています)、全国民が(=イスラエルの民が)滅びないようになるのが(=いのちをえるのが)わたしたちにとって得だということを、考えてもいない」。このことは彼が自分から言ったのではない。彼はこの年の大祭司であったので、預言をして(=神が彼にことばをあたえて預言をさせて)、イエスが国民(=イスラエルの民)のために、ただ国民のためだけではなく(=そればかりか国民のためだけではなく)、また散在(さんざい)している神の子らを(=広い範囲にちらばっている異邦人の信仰者たちをも)一つに集めるために(=キリストに結ばれて、キリストの一つのからだを形成させるために(ローマ12:5))、死ぬことになっていると、言ったのである(=カヤパは不信者なので、このことの意味を自分でもわからずに話しています。ただし神からあたえられた預言を語っているので、内容に関しては、贖罪(しょくざい=罪のあがない)における神の真理そのものになっています。しかしここで皮肉なのは、ユダヤ人指導者たちにとっては、まったくちがう解釈ができるようになっているところです。それは、ローマの許可なくキリストがリーダーとなるようなことがあれば、ローマにさからったとして、彼らの地位はうばわれ、さらにはイスラエルの民がほろぼされる危機に直面することです。そこで先にイエスを殺すことで民全体を守り、いまある既得権益を存続させるほうが得策だとうけとれるようになっているのです)』

 

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(こうした話し合いをへて、ユダヤ人指導者たちはイエスを殺す覚悟をかためました。どうか一人でも多くの方が、キリストによる罪のあがないをうけとりますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)