あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない(ヨハネ3:4~8)

(今回は、罪からの清めと神の霊によって新しく生まれる、ということについてふれたいと思います)

 

まず先に “水” についてふれておきます。

『わたしは(=神は)清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れ(けがれ=罪)から清め、またあなたがたを、すべての偶像(=つくりものの神々を礼拝した罪)から清める』(エゼキエル36:25)

このように “水” は、罪から清める際にもちいられます。聖書にでてくるバプテスマ(洗礼)も、罪からの清めをえるために、からだを水にひたすことをさしています。

 

ヨハネによる福音書・3章の4~8節より

『ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎(たい)にはいって生れることができましょうか(=“霊” に目をむけずに “肉(=肉体)” だけをみている人の考えになります)」。イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水(=罪からの清め)と霊(=神の霊)とから生れなければ、神の国にはいることはできない(=キリストをとおして実現している、神のご支配のもとにはいることはできない)。肉から生れる者は肉であり(=“肉” がもたらす罪の問題をかかえたままであり)、霊から生れる者は霊である(=神の霊によって新しく生まれた者は、神の霊がその人の内におかれた状態になっています。そしてこの霊をとおして神とのまじわりをもつことになります。またこの霊は肉ではないので、アダムによって生じた罪をおかす性質をひきついでいません)。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない(=すべては神がさだめられたとおりのことである)。風は思いのままに吹く(=神のご支配のもとで思いのままふいている)。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない(=しかし神はそれがどこへ行くのかご存じです)」。霊から生れる者もみな、それと同じである(=神のご支配のもとで、みなが神の霊に身をゆだねて思いのままにあゆみます。そして神はそのあゆみを知っておられるのです)」』

 

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(わたしたちがキリストを信じたとき、上記の内容のことはすべて神がなさり、みちびいてくださいます。どうか一人でも多くの方が、罪からの清めと神の霊をさずかって、神の国にはいることとなりますように。イエス・キリストのお名前をとおしてお祈りいたします)