(今回は、目で見たことのないものを信じる、信仰の本来のすがた、についてふれたいと思います)
『十二弟子のひとりで、デドモ(=双子という意味)と呼ばれているトマスは、イエスが(=復活したキリストが)こられたとき、彼らと一緒にいなかった。ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あと(=十字架にかけられたときのくぎあと)を見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきに(=十字架による死亡の確認のためにやりで刺されたわきに)さし入れてみなければ、決して信じない」。八日ののち(=復活から二度目の日曜日)、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ(=平安があるように)」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスは(=キリストの言われたとおりにさわり、目でも確認したトマスは)イエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである(=当時の弟子たちは、こうして復活したキリストがあらわれてくださったので、目でも確認することができました。しかし信仰とは本来、目で見なくても信じるところに、その真意がこめられています)」』
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(当時の弟子たちは、キリストとともに時をすごし、こうして復活したあとにも再会することができました。これはいまのわたしたちのように、キリストが昇天したあとに信仰をもつ者たちとは、決定的に異なります。しかし目で見ていないからといって、キリストを信じられないというものではありません。どうか一人でも多くの方が、見えないものを大きな希望とすることができますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)
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天の父なる神さま、
わたしは自分が罪人であるのを告白します。
このようなわたしのために、イエスさまが罪をひきうけて、
十字架にかかってくださいました。
そしてお墓にいれられ、三日目に父なる神によって死から復活させられました。
このことを信じるわたしを、これからもみちびいてください。
あなたからのめぐみと、あたえられた永遠のいのちに感謝いたします。
アーメン。