(今回は、死に際に罪のあがないの完了を宣言されるキリスト、についてふれたいと思います)
『そののち(=キリストがマリアとヨハネに対して、たがいに母と子としてむかえるようにのべられたのち)、イエスは今や万事が終ったことを知って(=これまで神の証しをしつづけ、そしてこうして十字架の上で、世の罪をあがなうための神のさばきをうけきったのを知って。要は人々の罪に対する神の怒り、その怒りをなだめるいけにえとしての血をながしきったのを知って)、「わたしは、かわく」と言われた(=死がもたらす苦しみ、そのかわきをおぼえておられます。これは詩篇69:21にあることばでもあります)。それは、聖書が(=神のみこころが、また旧約聖書の預言が)全うされるためであった。そこに、酢(す)いぶどう酒がいっぱい入れてある器(うつわ)がおいてあったので、人々は(=刑を見とどけてやろうとあつまっていた人々は)、このぶどう酒を含ませた海綿(=スポンジのような繊維状の骨格をもつかいめん動物、それを乾燥させたもの)をヒソプ(=イネ科の植物)の茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した(=これは気絶させない気付け薬のようなもので、すこしでも生きながらえさせて、とくにエリヤ(=かつての預言者)のことなどを聞きだそうとしています(マタイ27:47~48)。またあざけりやののしりをこめて、キリストの口に押しあてています(ルカ23:36))。すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った(=こうして詩篇69:21のことばも成就し、罪のあがないという神からの使命を完了させました)」と言われ、首をたれて息をひきとられた(=こうしてキリストは、ご自身の霊を神にわたされました(ルカ23:46))』
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(こうしてキリストは「すべてが終った」と宣言されて、息をひきとりました。これは要するに、罪からあがなわれるために必要なことは、すべてキリストがたった一度の死で完成させてくださったということです。救われるために、わたしたちにはなんのおこないも必要なく、ただ信仰によってキリストからの恵みにあずかれるのです。どうか一人でも多くの方が、キリストを信じますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)
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天の父なる神さま、
わたしは自分が罪人であるのを告白します。
このようなわたしのために、イエスさまが罪をひきうけて、
十字架にかかってくださいました。
そしてお墓にいれられ、三日目に父なる神によって死から復活させられました。
このことを信じるわたしを、これからもみちびいてください。
あなたからのめぐみと、あたえられた永遠のいのちに感謝いたします。
アーメン。