あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

すると、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」(ヨハネ18:6~11)

(今回は、罪に対する神の怒りを、キリストがひきうけてくださる、ということについてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・18章の6~11節より

『イエスが彼らに(=捕らえにきた者たちに)「わたしが、それである(=これは神性宣言です)」と言われたとき、彼らはうしろに引きさがって地に倒れた(=立っていられなくなった)。そこでまた彼らに、「だれを捜(さが)しているのか」とお尋ねになると、彼らは「ナザレ(=キリストが育った故郷)のイエスを」と言った。イエスは答えられた、「わたしがそれであると、言ったではないか(=こちらは神性宣言というよりも、わたしこそがナザレのイエスだ、という意味)。わたしを捜しているのなら、この人たちを(=キリストの弟子たちを)去らせてもらいたい」。それは、「あなたが(=神がキリストに)与えて下さった人たちの(=すべての信者の)中のひとりも、わたしは失わなかった」とイエスの言われた言葉(ヨハネ17:12)が、成就するためである。シモン・ペテロ(=弟子の一人)は剣(つるぎ)を持っていたが、それを抜いて、大祭司(=神殿をしきっている最高の職位)の僕(しもべ)に切りかかり、その右の耳を切り落した。その僕の名はマルコスであった。すると、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父が(=神が)わたしに下さった杯(=ここでの “さかずき” とは、世の人々の罪に対して神が向けられる “怒り” のことです(黙示録14:9~10)は、飲むべきではないか(=キリストが救い主として十字架で身代わりとなって、ひきうけるべきではないか)」』

 

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(本来なら、神に対して罪をおかしてきたわたしたちが、神の怒りの対象となってさばきをうけるべきです。ですが上記にあるように、キリストが身代わりとなってその怒りをうけてくださるのです。そしてこれこそが神からのわたしたちへの恵みであり、みこころなのです。どうか一人でも多くの方が、キリストからの愛をうけとりますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)