あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう(ルカ1:34~45)

(今回は、聖霊によってやどされるキリスト、についてふれたいと思います)

 

ルカによる福音書・1章の34~45節より

『そこでマリヤは御使(みつかい)に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか(=どのようにして子をさずかることがおこりえるでしょうか)。わたしにはまだ夫がありませんのに」。御使が答えて言った、「聖霊が(=神の霊が)あなたに臨(のぞ)み、いと高き者(=神)の力があなたをおおうでしょう。それゆえに(=夫との関係をもたずに、いわば処女降誕によって)、生れ出る子は(=イエスキリストは)聖なるものであり(=神性をともなっており)、神の子と、となえられるでしょう。あなたの親族エリサベツも老年(ろうねん)ながら子を(=キリストの先駆者となるヨハネを)宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。神には、なんでもできないことはありません」。そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしため(=奴隷)です。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町(=イスラエルの地の南部、エルサレム方面)に行き、ザカリヤ(=エリサベツの夫)の家にはいってエリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も(=聖霊からやどった子も)祝福されています。主の母上が(=救い主イエスの母となるマリヤが)わたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。主の(=神がガブリエルをとおして)お語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」』

 

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(キリストは聖霊によってやどり、マリヤの胎をとおってお生まれになります。これにより神でありながらも人間であることが実現します。またキリストは聖霊からやどっているので、わたしたちのようにアダムからの罪をおかす性質をうけついでいません。完全に聖(きよ)いお方、神の御子(みこ)であるのです。どうか一人でも多くの方が、神が人となられたキリストを信じますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい(ルカ1:26~33)

(今回は、ガブリエルによるキリストの誕生に関する預言、についてふれたいと思います)

 

ルカによる福音書・1章の26~33節より

『六か月目に(=エリサベツがヨハネをみごもった六か月目に)、御使(みつかい)ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤ(=イスラエルの地の北部)の町の一処女のもとにきた。この処女はダビデ家(=かつて神への信仰をもっていたイスラエルの王家)の出であるヨセフという人のいいなづけ(=婚約関係)になっていて、名をマリヤといった。御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり(=人類の救い主となり)、いと高き者の子(=神の子)と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり(=ダビデは、神の民であるイスラエルを一つに束ねていた王国の象徴的な存在です。その神の民を束ねる王座をキリストにお与えになり(サムエル記2の7:16))、彼はとこしえに(=永遠に)ヤコブの家を支配し(=ヤコブは、神から “イスラエル” という名をあたえられた人物です。このヤコブから十二人の息子が生まれ、イスラエルの十二部族が誕生しました。よって “ヤコブの家” とは、神の民イスラエルのことであり、この民をキリストが永遠に治め)、その支配は限りなく続くでしょう」』

 

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(キリストはいと高き者の子(神の子)という神性をもちながら(=神でありながら)、ダビデの血筋のヨセフとマリヤの子という人間としてお生まれになります。それと “父ダビデの王座” という表現がありますが、これは “神の民としてのイスラエルを、ただしく治める者の王座” という意味があります。この王座につかれるのがキリストであり、それだけでなくキリストは、この “神の民” というイスラエルを指していた旧約聖書の定義を、全世界の人々に広げてくださり(エペソ2:14~16)、すべての信者の王として、いまこのときも治めてくださっているのです(=なおこのご支配が、目に見えるかたちで実現するのは、キリストが再臨して、千年王国の王となられてからのことになります)。どうか一人でも多くの方が、キリストの王国(神の国)に招かれますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています(ルカ1:18~25)

(今回は、御使いであるガブリエルの話を信じないザカリヤ、についてふれたいと思います)

 

ルカによる福音書・1章の18~25節より

『するとザカリヤは(=ヨハネを子としてさずかるとつげられたザカリヤは)御使(みつかい)に言った、「どうしてそんな事が、わたしにわかる(=みとめられる)でしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています(=子を宿せる年齢ではありません)」。御使が答えて言った、「わたしは神のみまえに立つガブリエルであって、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために、つかわされたものである。時が来れば成就するわたしの言葉を(=神からたくされたことばを)信じなかったから、あなたはおしになり(=ことばがしゃべれなくなり)、この事の起る日まで、ものが言えなくなる」。民衆は(=ユダヤ人は)ザカリヤを待っていたので、彼が聖所内で(=エルサレム神殿の聖所で)暇(ひま)どって(=てまどって)いるのを不思議に思っていた。ついに彼は出てきたが、物が言えなかったので、人々は彼が聖所内で(=神からの)まぼろしを見たのだと悟った。彼は彼らに合図をするだけで、引きつづき、おしのままでいた。それから務(=祭司としてのつとめ)の期日が終ったので、家に帰った。そののち、妻エリサベツはみごもり、五か月のあいだ引きこもっていたが、「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥(=子をさずからないことは、当時は神から祝福されていないとの考えがありました)を取り除くために、こうしてくださいました」と言った』

 

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(ガブリエルの話を信じなかったザカリヤは、ヨハネが産まれるまでことばがしゃべれなくなりました。たとえば旧約聖書にも、高齢のアブラハムが(=イスラエル民族の祖(そ)である人物が)子をさずかっていませんでしたが、神のみわざによってイサクをさずかりました。もちろんザカリヤはこのできごとを知っていたのです。どうか一人でも多くの方が、神のみわざを信じていけますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう(ルカ1:8~17)

(今回は、キリストの先駆者としてのヨハネの誕生に関する預言、についてふれたいと思います)

 

ルカによる福音書・1章の8~17節より

『さてザカリヤ(=アビヤの組の祭司)は、その組が当番になり神のみまえに祭司の務(つとめ)をしていたとき、祭司職の慣例(かんれい)に従ってくじを引いたところ、主の聖所(せいじょ=エルサレム神殿内の神聖な場所)にはいって香(=神への奉仕としてこう)をたくことになった。香をたいている間、多くの民衆は(=ユダヤ人は)みな外で祈っていた。すると主の御使(みつかい)が現れて、香壇(こうだん)の右に立った。ザカリヤはこれを見て、おじ惑い(=取り乱し)、恐怖の念に襲われた。そこで御使が彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈(いのり)が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネ(=この名には、神は恵み深い、という意味があります)と名づけなさい。彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。彼は主のみまえに大いなる者となり(=キリストの先駆者となり、人々にバプテスマ(=水をもちいた罪の清め)をさずけ)、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず(=これは神のために身を聖別(=きよめ分かたれた者として献身)するときのとりきめです(民数記6:2~3))、母の胎内にいる時からすでに聖霊(=神の霊)に満たされており、そして、イスラエルの多くの子らを(=神の民としてのイスラエルユダヤ人)を)、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。彼はエリヤ(=かつて神に遣わされた預言者)の霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父(=父親)の心を子に向けさせ(=聖書のおしえをもって育てさせ(エフェソ6:4))、逆らう者に(=神に不従順な者に)義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう(=キリストをうけいれるための準備をさせるだろう。なおこれはマラキ書4:5~6の成就です)」』

 

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(この時点ではまだキリストはお生まれになっていません。先にヨハネが生まれ、まずキリストの宣教がうけいれやすくなるための活動をとることになります。どうか一人でも多くの方が、キリストに興味をもって聖書を手にとりますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります(ルカ1:1~7)

(今回は、この福音書は、ルカがローマの高官宛てに書いたものとしてつづられている、ということについてふれたいと思います)

 

※なお今日から “ルカによる福音書” にはいりますが、当時のユダヤ人が住んでいる地域は(=現在のイスラエルの辺りは)、ローマ帝国支配下にありました。キリストはこの地にユダヤ人としてお生まれになり、ユダヤ人に宣教をしていくことになります。この時代背景をおさえておくと、理解の手助けとなります。

 

ルカによる福音書・1章の1~7節より

『わたしたちの間に成就された出来事を(=キリストがユダヤ人の住む地域でなさったできごとを)、最初から親しく見た人々であって(=キリストが宣教をはじめたときからよく知る目撃者であり)、御言(みことば=キリストがお語りになったことば)に仕えた人々が伝えたとおり物語に(=書物に)書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、テオピロ閣下(=ルカと親しい関係にあるローマの高官である人物)よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献(けん)じる(=さしあげる)ことにしました。すでにお聞きになっている事が確実であることを(=すでにあなたがキリストについて聞いていることの、そのたしかさを)、これによって十分に知っていただきたいためであります。ユダヤの王ヘロデ(=ローマ公認の当時のユダヤの王ヘロデ)の世に、アビヤの組(=ユダヤの地のエルサレム神殿での、神への礼拝奉仕にたずさわる24個の組の一つ(歴代志上24:7~18))の祭司(さいし=神に礼拝や供え物をささげる人)で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家(=代々祭司が選ばれる家系で、先ほどのアビヤもこのアロンの子孫です)の娘のひとりで、名をエリサベツといった(=この夫婦が、のちのバプテスマ(洗礼者=水をもちいて罪を清める者)のヨハネを子としてさずかります。このヨハネが神によって、キリストよりも少し前に遣わされて、キリストの宣教がうけいれられやすいように、その道をととのえます)。ふたりとも神のみまえに正しい人(=信仰者)であって、主の戒(いまし)めと定めとを(=いわゆる律法を)、みな落度なく行っていた。ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていた』

 

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(ルカはテオピロ宛てにこの福音書を書いています。おそらくこのようにキリストについて細かく記したものを送るのですから、テオピロはすでに信仰をもっていたか、あるいはキリストに関することを強くもとめていたものと思います。また彼のテオピロという名にも、“神に愛された者” といった意味がこめられています。どうか一人でも多くの方が聖書に興味をもって、手にすることとなりますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている(ヨハネ21:24~25)

(今回は、ヨハネがキリストについて書いた福音書は、すべて真実である、ということについてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・21章の24~25節より

『これらの事について(=キリストがなさった神のみわざや、お語りになったことについて)あかしをし、またこれらの事を書いたのは(=ヨハネによる福音書として書きのこしたのは)、この弟子(=ヨハネ)である。そして彼(=ヨハネ自身)のあかしが真実であることを、わたしたちは(=当時キリストとともに過ごし、復活を目の当たりにした者たち。また当時のヨハネをとおしてキリストを信じるにいたった者たち。さらに広い意味では、キリストを信じることで聖霊をさずかった今のわたしたちは)知っている。イエスのなさったことは(=病のいやしなどの神のみわざは)、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う(=キリストが人々にしめされた神の愛や恵みはあふれるほどであり、こうした福音書をもっても書ききれないということです)』

 

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(キリストは地上の生涯において、ご自身が世の救い主であるのをしめされ、また恵み豊かな神をあらわされました。そして昇天後に神の右の座につかれている今も、わたしたちにおあたえになった聖霊をとおしてはたらかれています。これらのことを証ししている聖書は、神の霊感によって書かれており(=テモテ2の3:16)、神の権威がすみずみまで行きわたっている真実の書物なのです。どうか一人でも多くの方が、わたしたちの王であられるキリストを信じますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか(ヨハネ21:22~23)

(今回は、ペテロにはペテロの信仰の歩みがあるとつたえるキリスト、についてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・21章の22~23節より

『イエスは彼に(=弟子のヨハネの将来を尋ねたペテロに)言われた、「たとい(たとえ)、わたしの来る時まで(=昇天後に再び天から来るときまで。信者にとっての携挙(けいきょ)のときまで(テサロニケ一・4:15~17))彼が(=ヨハネが)生き残っていることを、わたしが望んだとしても(=仮に望んだとしても)、あなたにはなんの係わりがあるか(=ペテロにはペテロの信仰の歩みがあり、神がそれを用意されるのだから、ヨハネがどのようにみちびかれて歩んでいくのかは、あなたにはかかわりのないことだ)。あなたは、わたしに従ってきなさい(=したがいつづけなさい)」。こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが(=キリストがペテロを諭(さと)すために語った内容が、誤(あやま)ったうわさとなって)、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである(=ペテロにはペテロの歩みがあるのであり、仮にキリストがヨハネに対して、彼が死なないように願ったところで、それはあなたには関係がないと、たとえ話をして説明されました。なお実際のヨハネもすでに亡くなっています)』

 

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(キリストにしたがっていく過程で、それぞれの信者がどうみちびかれていくのかは、神がおきめになることです。ですから、その歩みがどうなっていくのかは本人にかかわりがあり、他者には関係がありません。わたしたちは神を信じて、自分に与えられた道を歩んでいくまでなのです。どうか一人でも多くの方が、キリストにしたがいつづけていきますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)