(今回は、世を救う光として神につかわされたキリスト、についてふれたいと思います)
『イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく(=神から独立しているキリストを信じているのではなく)、わたしをつかわされたかたを信じるのであり(=キリストをとおしてキリストと一体である父なる神を信じているのであり)、また、わたしを見る者は(=キリストのご性質をみる者は)、わたしをつかわされたかたを見るのである(=キリストをとおしてキリストと一体である父なる神のご性質をみているのである)。わたしは光としてこの世にきた(=人に救いをもたらす光として天からつかわされた)。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである(=サタンの支配下におかれたまま、罪がもたらす死のなかにとどまらないためである)。たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても(=話をきくにはきいたが、それを信じない人があっても)、わたしはその人をさばかない(=さばきは将来の千年王国後におこなわれます。その判決内容は父なる神がくだし、キリストが言いわたします(ヨハネ5:30))。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである(=キリストがこられた目的は、十字架によってわたしたちの罪をあがなって、永遠のいのちにあずからせるためなのです)』
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(キリストを信じることなしに、人は自力では罪の問題を解決することはできません。こうしたわたしたちのために、キリストが世の罪の身代わりとなって、神のさばきを十字架でうけてくださいました。どうか一人でも多くの方が、救い主であるキリストを信じますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)