(今回は、罪を罰する権利をもちながら、メシア(救い主)としての立場をとられるキリスト、についてふれたいと思います)
『そこで(=女をさらしものにして、イエスをおとしいれようとしていた者たちが去ったあとで)イエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者は(=石を投げつける者は)なかったのか」。女は言った、「主よ(=この女がどこまでさとったのかはわかりませんが、とにかく、主よ(=神よ)、と呼びかけています)、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない(=イエスはこの女の罪を大目にみることなく、まず律法にしたがって、“あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい” と発言なさいました。これをうけてだれもが去ったわけですが、しかしここに罪を一つもおかしておらず、石をなげる権利をおもちのイエスがいます。そしてそのイエスがつぎに発したのは、あなたを罰しない、というおことばでした。これは一見律法に反しているようにうけとれますが、実際はこの女がうけるべき罰を、イエスが十字架で身代わりとなってうけることで、罰は罰として処理されているのです。ですから罪の清算はおこなわれているので、律法は守られていますし、この発言こそは、清い血(=罪を一つもおかしておらず、罪に汚(けが)れていない血)をもって世の罪をあがなわれた、メシア(救い主)だけに可能な発言になっているのです。そしてこれが神のみこころであるのです)。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」』
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(上記で女は、イエスを “主よ” と呼んでいますが、彼女が、イエスからの十字架でなしとげてくださった恵みをうけとるには、こころからの悔いあらためと、イエスをキリストと信じる信仰が必要になります。そしてもう間もなくで実行される、十字架の意味を理解したとき、あなたを罰しない、というほんとうの意味での、神の憐(あわ)れみと恵みをよろこびをもってうけとることになるのです。どうか一人でも多くの方が、キリストを信じて、罪を赦(ゆる)されたものとなりますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)