あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい(ヨハネ8:6~9)

(今回は、たくらみをもっている者たちの罪を、短いおことばでさらけださせてしまうキリスト、についてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・8章の6~9節より

『しかし、イエスは身をかがめて(=イエスを告発しようとたくらんでいる者たちを見ずに、身をかがめて)、指で地面に何か書いておられた(=なにを書かれていたのかはわかりません。もしかしたら彼らがこれ以上罪をおかさないように願われていたのかもしれません)。彼らが問い続けるので(=女をさらしものにして、あくまでイエスをおとしいれようとしてくるので)、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に(=姦淫(かんいん)をしたこの女に)石を投げつけるがよい(=イエスモーセの律法にもとづいて発言なさいました。それでいて、あからさまにこの女の死刑を命じているわけでもなく、また、ここにあつまっているすべての者が罪人で、だれひとり石を投げられないのが前提にあるので、おことばのニュアンスからもローマの法律にふれないかたちになっています)」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた(=こうして罪を増しくわえている彼らの現状を悲しまれながら、やはりこれ以上罪をおかさないように、さらには悔いあらためるのを願われているのかもしれません)。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き(=彼らも自分が、この女となんらちがわない、似た経験をもった罪人であるのを自覚させられ、石を投げる権利がないのをさとらされて)、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された』

 

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(上記において、もし石を投げつける者があったなら、それは罪をおかしながら生きてきたその人自身も、石をなげつけられて殺されてよいことになります。それゆえにだれも石を投げられませんでした。キリストはけっしてモーセの律法に反して、この女の罪を大目にみたのではありません。罪は罪として厳粛(げんしゅく)にみておられるのです。どうか一人でも多くの方が、キリストを信じて、永遠のいのちをさずかりますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)