(今回は、イエスのふるまいに、キリストなのではないかと信じはじめている人々、についてふれたいと思います)
『そこで人々はイエスを(=ご自分が、父なる神と等しい存在であると宣言したイエスを)捕えようと計ったが、だれひとり手をかける者はなかった(=神からの守りがあるために、だれもイエスに手をかけられなかった)。イエスの時が(=イエスが、世の人々の罪をあがなうために十字架にかけられるときが)、まだきていなかったからである(=神のご計画にそっての “そのとき” がまだきていなかったからである)。しかし、群衆の中の多くの者が、イエスを信じて言った、「キリストがきても(=仮にほんとうのキリストがきたとしても)、この人(=イエス)が行ったよりも多くのしるしを(=病のいやしなどの奇跡を)行うだろうか(=すなわちこのイエスこそが、やはりキリストなのではないか)」。群衆がイエスについてこのようなうわさをしているのを、パリサイ人たちは(=キリストを敵視しているユダヤ教の一派。また宗教指導者たちは)耳にした。そこで、祭司長たち(=神殿をしきっている者たち)やパリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、下役(したやく=神殿の守衛)どもをつかわした』
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(上記の群衆も、まだイエスを信じきれているわけではありません。彼らは、イエスがほんとうにキリストなら、このままユダヤの王となって、ローマ帝国からもユダヤを救いだすはずだと思っていました(=当時はローマ帝国の支配下にありました)。しかし実際は王になることはなく、十字架へとむけてとらえられ、失望するはめになりました。彼らには、受難の初臨(しょりん)と(=十字架による罪のあがないをなしとげる初臨と)、王国をおさめる再臨との(=終末において、この地上をおさめる千年王国の王としての再臨との)区別がついていなかったのです。どうか一人でも多くの方が、キリストを信じて救われますように。イエス・キリストのお名前をとおしてお祈りいたします)