あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である(ヨハネ7:14~17)

(今回は、神からのおしえをありのまま語られているキリスト、についてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・7章の14~17節より

『祭も半ばになってから、イエスは宮に(=エルサレム神殿の境内(けいだい)に)上って教え始められた。すると、ユダヤ人たちは(=ユダヤ人の聴衆や指導者たちは)驚いて言った、「この人は学問をしたこともないのに(=イエスは田舎のガリラヤ育ちで、旧約聖書に関する専門的な学び(=律法学者からの学び)をうけていないのに)、どうして律法の(=旧約聖書にある神からのおしえ、指針の)知識をもっているのだろう」。そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教(おしえ)はわたし自身の教ではなく(=イエスの経験や、独自の学びからでたおしえではなく)、わたしをつかわされたかたの教である(=神から受けとられたそのままのおしえ。聖書と寸分もちがわないおしえである)。神のみこころを行おうと思う者であれば(=神(聖書)に信頼をおき、そのおしえのとおりに生きようとする者であれば)、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか(=神のおしえのとおりのものか)、それとも、わたし自身から出たものか(=イエスの経験や、独自の学びからでたものか)、わかるであろう』

 

――――――――――――――――――――

(当時のユダヤ人は、律法を意識していましたが、それらは自分たちの都合にあわせた口伝律法(くでんりっぽう)という歪曲(わいきょく)されたものでした。ここにキリストがあらわれて、神からのおしえのままをお語りになりました。神の御子(みこ)であるキリストは、神が彼らに律法をおあたえになったみこころをも知っておられるのですから、律法の解釈にしても、完全に神と一致したものでした。キリストがお語りになることばは、まさに神のおしえそのものだったのです。どうか一人でも多くの方が、神のみこキリストを信じて救われますように。イエス・キリストのお名前をとおしてお祈りいたします)