(今回は、キリストのことばは、神のえらびにあずかっている者にしか理解できない、ということについてふれたいと思います)
・ヨハネによる福音書・6章の63~65節より(以下はキリストのおことばです)
『わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である(=キリストが語ることばには、神の霊的な力がともなっており、またいのちをもたらす力がそなわっています)。しかし、あなたがたの中には(=ひとまずのところイエスについてきていた者たちのなかには)信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか(=ついてきていた大勢のなかからも、だれが信じないか)、また、だれが彼を裏切るか(=これは12人の弟子のうちのユダのことです。彼はうらぎって、イエスをユダヤ人指導者にひきわたします)を知っておられたのである。そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ(=神のえらびにあずかって、キリストのもとにひきよせられた者でなければ)、わたしに来ることはできない(=ほんとうの信仰にいたることはできない)と、言ったのである」』
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(わたしたち人間には、信仰にいたるまえの時点で、自分が神にえらばれているかどうかを知ることはできません。これは聖書を読んで、信仰にいたったのちに(=あるいは信仰にいたって、聖書をまなびつづけている過程で)、神は自分をえらんでくださっていたんだ、とわかるものなのです。どうか一人でも多くの方が、神からのめぐみの存在を知って、よろこびにつつまれますように。イエス・キリストのお名前をとおしてお祈りいたします)