あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

神を汚すことを言うこの人は、いったい、何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか(ルカ5:17~21)

(今回は、イエスが神なのだという認識にいたれない宗教指導者たち、についてふれたいと思います)

 

ルカによる福音書・5章の17~21節より

『ある日のこと、イエスが教えておられると、ガリラヤ(=イスラエルの地の北)やユダヤ(=イスラエルの地の南)の方々の村から、またエルサレム(=神殿のある中心地)からきたパリサイ人(=パリサイ派ユダヤ教の一派で、ユダヤ人の宗教指導者の地位をきずいている)や律法学者たち(=律法を研究し説く者)が、そこにすわっていた(=要はイエスのはたらきを耳にして、本当に神からのものか視察しにきています)。主の力(=神の力、みわざ)が働いて、イエスは人々をいやされた。その時、ある人々が、ひとりの中風(ちゅうぶ=手足にまひがあり寝たきりの状態)をわずらっている人を床(とこ)にのせたまま連れてきて、家の中に運び入れ、イエスの前に置こうとした。ところが、群衆のためにどうしても運び入れる方法がなかったので、屋根にのぼり、瓦(かわら)をはいで、病人を床ごと群衆のまん中につりおろして、イエスの前においた。イエスは彼らの信仰を(=キリストを信じているからこそ、瓦まではいで病人をつりおろしたことを)見て、「人よ(=中風の人よ)、あなたの罪はゆるされた」と言われた。すると律法学者とパリサイ人たちとは、「神を汚(けが)すことを言うこの人は、いったい、何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と言って論じはじめた(=人の罪をゆるす権威をお持ちなのは神だけです。この点で彼らの主張はまちがっていません。そこで彼らは、罪のゆるしを口にしたイエスを、神への冒涜(ぼうとく)をおかした者として、神をけがした、と表現しています。ただここで問題なのは、イエスがその神なのだという真理を、彼らが見落としている点にあります)』

 

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(これから宗教指導者たちは、イエスへの敵意をふくらませていくことになります。たしかに彼らは律法に詳しい一面もあるのですが、目の前で病がいやされる光景を目の当たりにしても、それを神のみわざとは認めることができませんでした。要はプライドがじゃまをして、素直にうけとめられないのです。つづきは次回みていきます。どうか一人でも多くの方が、神のみわざを認められますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)