あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

あなたの罪はゆるされたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか(ルカ5:22~26)

(今回は、困難である罪のゆるしを発言してくださったキリスト、についてふれたいと思います)

 

ルカによる福音書・5章の22~26節より

『イエスは彼らの論議を(=麻痺で寝たきりの人に、あなたの罪はゆるされた、と告げたイエスが、神を冒涜(ぼうとく)してるのではないか、という彼らの思いを)見ぬいて、「あなたがたは心の中で何を論じているのか。あなたの罪はゆるされたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか(=これは神のご立場からしたら、どちらがたやすいかという質問です。神にとってたやすいのは、起きて歩けと言うほうです。神は人の病をいやすのに代価をもとめません。しかし罪をゆるすのには、神の御子(みこ)キリストの血(命)をもとめられました。それも神のみこが犠牲になるほかには、解決手段がないほどに困難なことなのです。これを十字架において実現なさるキリストであるがゆえの、罪のゆるしを、ここで発言されているのです。また病のいやしは地上に生きているあいだにだけかかわることですが、罪のゆるしは永遠にかかわる問題です。キリストはまさに偉大な発言をしてくださったのです)。しかし(=しかし、この罪のゆるしが本当に実現しているかどうか、それをあなたがたに見えるかたちでしめす方法がない中で)、人の子は(=キリストご自身が)地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために(=あなたがたのだれもがわかるように)」と彼らに対して言い、中風(ちゅうぶ)の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床(とこ)を取り上げて家に帰れ」と言われた。すると病人は即座にみんなの前で起きあがり、寝ていた床を取りあげて、神をあがめながら家に帰って行った。みんなの者は驚嘆(きょうたん)してしまった。そして神をあがめ、おそれに満たされて、「きょうは驚くべきことを見た」と言った(=このようにキリストは、罪のゆるしを発言できるご自身の権威をしめすために、この場で病人を立たせるしるし(奇跡)をおこないました。これは神においては、たやすいほうをしてみせたわけですが、人々を納得させるには十分でした。神にしかできないいやしを瞬時に成したのですから、ここに神の権威がともなっているのはあきらかです。これによって罪のゆるしが実現しているという、目には見えない権威をしめされたのです)』』

 

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(上記は、病のいやしをもとめてきた中風の人に、病のいやしではなく、一見まとはずれな罪のゆるしを発言なさったシーンです。ですから、ここではよりたやすいほうを発言しておきながら、どちらがたやすいか、と問うようでは質問自体がちぐはぐになってしまいます。より困難なほうを実現なさったからこそ、どちらがたやすいかと問えているのです。ただこの罪のゆるしが本当に実現しているかどうかは、人の目に見えません。そこであえて病のいやしというしるしをもちいて、神の権威がここにたしかにあるのをしめされました。そして神の権威がしめされたのですから、罪のゆるしを実現たらしめている権威の存在もあきらかとなったのです。あとはうけとる側の人間の問題です。どうか一人でも多くの方が、キリストの神性を認めますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)