あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された(ヨハネ13:1~5)

(今回は、愛をもって弟子たちの足を洗われるキリスト、についてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・13章の1~5節より

過越の祭(=すぎこしのまつり)の前に、イエスは、この世を去って父(=神)のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り(=十字架で死に、その復活後に天にのぼるときがきたのを知り)、世にいる自分の者たち(=信仰者たち)を愛して、彼らを最後まで愛し通された(=あますところなく愛をしめされた)。夕食のとき(=最後の晩餐(ばんさん)といわれている食事のとき)、悪魔はすでにシモン(=ユダの父)の子イスカリオテのユダ(=12人の弟子の一人)の心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが(=サタンがイエスを殺すくわだてを着々とすすめていたが)、イエスは、父がすべてのものを(=万物を支配する権威を)自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて(=天から地上につかわされて)、神にかえろうとしていること(=死んで、復活後に天にかえろうとしていること)を思い、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水(=キリストがもちいることで霊における意味合いもかねてくる水です)をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた(=足をあらう行為はしもべの仕事です。ここではキリストがこの仕事をすることで、へりくだって仕えることや愛しあうことの大切さをしめし、また、たしかにご自分と弟子たちとに、肉体だけではない霊的なつながりがあるのをしめされました(ヨハネ13:8))』

 

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(上記の足をあらうという行為には、肉体のよごれを落とすほかに、キリストと弟子たちとに霊的なつながりがあるのをたしかめる意味合いがありました。どうか一人でも多くの方が、キリストを信じて、霊において神と一つとされますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)