あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

昼間あるけば、人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである(ヨハネ11:5~10)

(今回は、信仰者は神のご計画からはずれない、ということについてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・11章の5~10節より

『イエスは、マルタとその姉妹(=妹のマリヤ)とラザロ(=マリヤの弟)とを愛しておられた。ラザロが病気であることを聞いてから、なおふつか、そのおられた所に(=死海の北のヨルダン川の東側に)滞在された。それから弟子たちに、「もう一度ユダヤに(=ヨルダン川の西側、ベタニヤのラザロのところに)行こう」と言われた。弟子たちは言った、「先生、ユダヤ人らが、さきほどもあなたを石で殺そうとしていましたのに、またそこに(=エルサレムの方に)行かれるのですか」。イエスは答えられた、「一日には十二時間(=光がさしている時間が)あるではないか。昼間あるけば(=この光がさしている昼間が、神のご支配のもとにおかれているのを象徴しています)、人はつまずくことはない(=神からのみちびきがあり、みこころもおこなっていけます)。この世の光を見ているからである(=なぜなら昼をもたらしている(=神のご支配のもとにまねきいれる)世の光としてのキリストを信じてしたがっているからです)。しかし、夜あるけば(=悪魔の支配のもとにおかれていれば)、つまずく(=神からのみちびきはなく、みこころもおこなっていけません)。その人のうちに、光がないからである(=キリストという世の光に照らされておらず、暗闇からぬけだせていないからです)」』

 

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(人は一度キリストを信じたら、永遠に神のご支配のもとにおかれます。ただ上記の話では、信者と不信者を一日の昼と夜があるのになぞらえて語っているものと思います(=要は信仰者の霊はつねに光のなかにおかれていますが、それを太陽が照っている十二時間にあてはめて語っています)。そして霊において光のなかをあゆんでいる者は、神のご計画からそれたり、神の守りからもれたりすることもないので、ラザロのところに出向いても殺されはしない、ということがこめられているものと思います。どうか一人でも多くの方がキリストを信じますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)