あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

イエスは涙を流された(ヨハネ11:33~38)

(今回は、死に支配されている人間の不憫(ふびん)さに涙するキリスト、についてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・11章の33~38節より

『イエスは、彼女が泣き(=この場でのよみがえりへの信仰がなく、マリヤが悲しみにうちひしがれて泣いており)、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのを(=皆がよみがえりへの信仰がなく泣いているのを)ごらんになり、激しく感動し(=霊において悲しみなげくような苦しみ、憤(いきどお)りをおぼえ)、また心を騒がせ(=こころを痛め)、そして言われた、「彼をどこに置いたのか(=キリストはことばで説きふせるのではなく、とにかくラザロをよみがえらせようとしています)」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。イエスは涙を流された(=だれひとりよみがえりへの希望をもてていない不信仰さの中にありますが、といって彼らはラザロの死に対してなにかができるわけではなく、主よ、きて、ごらん下さい、と泣きながら答える存在でしかありません。イエスはこうした死に支配されている人間の不憫さに涙されたのだと思います。そして無力な彼らはというと、死に打ち勝つお方、“よみがえりであり、命であるキリスト” のところに全幅の信頼をよせてこないのです)。するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか(=キリストが涙していることに対して的はずれを口にしています)」。しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか(=このようにキリストが望まれているかたちでの信仰がありません)」。イエスはまた激しく感動して(=こころのうちに憤りをおぼえて)、墓にはいられた』

 

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(もしマリヤに、ラザロがこの場でよみがえるという信仰があったなら、キリストを見るや否や、期待がふくらんだにちがいありません。ですが彼女にその信仰はなく、絶望にかられたままでいます。こうした不信仰さにキリストはこころを痛め、また死に支配されている無力なマリヤたちに、憐(あわ)れみの涙をながされました。どうか一人でも多くの方が、キリストに信頼をよせますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

 

※なお今回の記事は、わたしにとってむずかしいものでした。うのみになさらず、お一人お一人が神とのまじわりをふかめていただければと思います。