あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

イエスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」(ヨハネ11:17~24)

(今回は、よみがえりに関するイエスの意図と、マルタが考えていることとのくいちがい、についてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・11章の17~24節より

『さて、イエスが行ってごらんになると、ラザロはすでに四日間も墓の中に置かれていた。ベタニヤはエルサレムに近く、二十五丁ばかり(=約3キロ)離れたところにあった。大ぜいのユダヤ人が、その兄弟(=ラザロ)のことで、マルタとマリヤとを慰(なぐさ)めようとしてきていた。マルタはイエスがこられたと聞いて、出迎えに行ったが、マリヤは家ですわっていた(=マリヤには、なぜもっと早く、生きているうちにきてくれなかったのか、というイエスへの落胆があったものと思います)。マルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら(=まだ生きているうちにきてくれていたなら)、わたしの兄弟は死ななかったでしょう(=マルタにも、なぜ生きているうちにきてくれなかったのか、という思いがあり、それを口にしています)。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています(=マルタは信仰を告白していますが、まさかこの場で生きかえらせてくれるとまでは考えていません)。イエスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろう(=この場で生きかえるだろう)」。マルタは言った、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています(=マルタの中では、この場で生きかえらせるのは不可能だという思いこみがあり、イエスの話を世の終末におけるものとして解釈しています)」』

 

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(イエスはこの場でラザロを生きかえらせるおつもりで、“よみがえるであろう” と言われました。ですがマルタのほうでは、信仰者が復活にあずかる終末のできごととしてとらえています。いうなれば信仰はあるのですが、この場でのよみがえりに対してはあきらめがあり、イエスがなされようとしている事の大きさにたどりつけていません。それがいちばんのよろこびをもたらすにもかかわらず、自分のほうで排除(はいじょ)してしまっているのです。どうか一人でも多くの方が、キリストによる神のみわざを信じますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)