あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである(ヨハネ8:15~18)

(今回は、一人目の証言者としてのキリスト、そして二人目の証言者としての神、ということについてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・8章の15~18節より(=以下は、二人の証言が必要だという指導者にむけての、キリストのおことばです)

『あなたがたは肉によって(=仮に二人の証言をあつめたとしても、霊である神の証言なしに)人をさばくが、わたしはだれもさばかない(=この地上にいるあいだはだれもさばかない。ましてや肉による人間の証言をあつめて、霊である神の証言なしにさばくことはしない)。しかし、もしわたしがさばくとすれば(=その際は霊によってさばくことになるが。なお実際に、最後の審判の場では、死者(=いまある “肉” をうしなった者たち)の魂をさばきます)、わたしのさばきは正しい。なぜなら、わたしは(=子なる神としても)ひとりではなく、わたしをつかわされたかた(=父なる神)が、わたしと一緒だからである。あなたがたの律法には(=神があなたがたにあたえた律法には)、ふたりによる証言は真実だと、書いてある(=このとおりにキリストのさばきは、“父” と “子” の二人の証言によっておこなわれます)。わたし自身のことをあかしするのは、わたしであるし(=なぜなら人間には、神のことを正確にあかしすることはできないし、またキリストもそれを必要とされていません)、わたしをつかわされた父も、わたしのことをあかしして下さるのである(=このようにさばきの手順と同じように、いましているご自身についてのあかしも、父なる神がともに証言してくださるという保証のもとに、律法にただしくそっておこなわれているのです)』

 

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(上記での論点は、人は肉によってさばくからただしくないということよりも、二人目となる証言者がしっかりと存在しているのかどうかにおかれています。そしてもちろんキリストには、神という二人目の証言者がおられるのですが、これは霊的な話にもなっているので、こころをかたくなにしている者たちには話の中身がみえてきません。それがますます敵意をいだかせることにもなっています。どうか一人でも多くの方が、キリストを信じて救われますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)