(今回は、キリストの宣教は故郷でははかどりづらい、ということについてふれたいと思います)
『ふつかの後に、イエスはここ(=サマリヤ)を去ってガリラヤ(=キリストの故郷がある地方)へ行かれた。イエスはみずからはっきり、「預言者は(=神からの使者。キリストご自身は)自分の故郷では敬(うやま)われないものだ」と言われたのである(=これは子供のころからのイエスの生い立ち(=たとえば大工(だいく)の息子であることなど)を知っているので、かえってメシア(救い主)だという現実がうけいれづらくなっているのを指摘しておられます)。ガリラヤに着かれると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。それは、彼らも祭(=8日間の過ぎ越しのまつり)に行っていたので、その祭の時、イエスがエルサレムでなされたことを(=病をかかえている人への癒(いや)しなどを)ことごとく見ていたからである(=このように彼らは、イエスをメシアとしてはうやまいませんでしたが、病をなおしてくれる便利な医者のようにして歓迎していました。これは神のご視点からすると、こころからの信仰にはいたっていないことになります(ヨハネ2:23~25も参照のこと))』
――――――――――――――――――――
(幼いころからのイエスを知る人たちにとっては、イエスも自分とかわらない人間であるとの見方がかたまりやすかったのだと思います。むしろイエスと初対面だったサマリヤ人のほうが、素直にメシアであることを信じられました。もちろんそうした信仰が、その場だけの表面的なものなのか(=おもに病のいやしなどをもとめているのか)、こころの底からのものなのか(=悔いあらためによる永遠の救いをもとめているのか)、神には識別がついておられます。どうか一人でも多くの方が、キリストを信じて、永遠のいのちをさずかりますように。イエス・キリストのお名前をとおしてお祈りいたします)