(今回は、キリストがいだいているよろこびが信仰者のうちにもある、ということについてふれたいと思います)
・ヨハネによる福音書・15章の8~11節より(以下はキリストのおことばです)
『あなたがたが実を豊かに結び(=キリストが内におられる信者が、神のご性質や栄光を、世にしめす実として豊かにむすんで)、そしてわたしの弟子となるならば(=決定的な決断をもってキリストの弟子となるなら)、それによって、わたしの父(=神)は栄光をお受けになるであろう(=信者が固くキリストにつき、世に神をあらわすことで神は栄光をお受けになります)。父がわたしを(=決定的に)愛されたように、わたしもあなたがたを(=決定的に)愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい(=信仰にとどまりつづけなさい)。もしわたしのいましめを(=キリストが語ったみことば。とくにキリストがしめしたように、あなたがたもたがいに愛しあいなさいといういましめを)守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちに(=たしかに)おるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを(=律法を。要約すると隣人を自分のように愛しなさいといういましめを)守ったので、その愛のうちに(=たしかに)おるのと同じである。わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びが(=神の愛のうちにあって、ぶどうの木として神のご性質や栄光を、世にあらわしていくことのよろこびが)あなたがたのうちにも宿るため(=キリストがいだいているよろこびが信者のうちにもあり、このことを知ってもらうため)、また、あなたがたの喜びが(=そうしてキリストの愛のもとにおかれ、実をみのらせていることのゆるぎないよろこびが)満ちあふれるためである』
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(キリストは神のいましめを守り、その生涯の最後には十字架の死をもって、わたしたち罪人をお救いになりました。これがなによりも神の愛のうちにいることの証しだったのです。そしていまわたしたちは、キリストのいましめを守り、キリストの愛のうちにいることを証ししています。こうしてキリストにつながりながら、ぶどうの枝として実をみのらせていくことがよろこびでもあるのです。どうか一人でも多くの方が、キリストの愛のもとにおかれますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)