(今回は、キリストが神によって立てられているがゆえにうけいれられない、ということについてふれたいと思います)
『わたしは(=キリストは)人からの誉(ほまれ=人からほめられ、よい評判をえること)を受けることはしない。しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている(=ほまれをうけはしないが、そもそもあなたがたは神を愛していないので、キリストをたたえようとするなにものもでてきはしない)。わたしは父の名によってきたのに(=神の権威によって立てられてきたのに)、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば(=自分で自分の名を立てて(=功績などをひきさげて)主張してきたなら)、その人を受けいれるのであろう。互に誉を受けながら(=たがいにほめあい、その仲間意識に満足しながら)、ただひとりの神からの誉(=神からのご栄光)を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか(=このように彼らには神への愛がないので、たがいにほめあえる人間同士のむすびつきに目がむいてしまっているのです)』
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(キリストは人からの評価を気にせずに、ただ神のみこころにしたがって身をふるまっておられます。こうした姿勢が、自尊心にとらわれている宗教指導者たちにとっては目ざわりであり、殺意をいだくまでになっています。彼らはキリストを拒否することで、神をも拒否しているのです。どうか一人でも多くの方が、キリストを信じて、神からの愛に応答していけますように。イエス・キリストのお名前をとおしてお祈りいたします)