(今回は、キリストが人々を弟子にするシーン、についてふれたいと思います)
『その翌日、イエスはガリラヤ(=キリストの故郷がある地方)に行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、「わたしに従ってきなさい(=キリストはピリポを弟子にえらばれました)」。ピリポは、アンデレとペテロとの町ベツサイダ(=ガリラヤ湖沿いの北東の町)の人であった。このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており(=モーセが旧約聖書の律法でしるしているのは、総じて神のことです)、預言者たちがしるしていた人(=預言者たちが旧約聖書でしるしているのは、おもにメシヤ(救い主)のことです。ですからこのふたつでしめしているのは、神でもありメシヤでもあるキリストのことです)、ヨセフ(=マリアの夫)の子、ナザレ(=ガリラヤ湖の西の町。キリストが育った故郷)のイエスにいま出会った」。ナタナエルは彼に言った、「ナザレから、なんのよいものが出ようか(=ナザレからメシヤがでるといった預言があっただろうか)」。ピリポは彼に言った、「きて見なさい」。イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人(=神の民であるイスラエルの民として、神とあゆんでいる人)である。その心には偽りがない(=神への信仰があって、誠実に神とむきあっている)」』
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(聖書には “弟子” ということばがでてきますが、キリストを信じたわたしたちも、キリストの弟子になっているのです。そして一人一人がそれぞれのはたらきをまかされています。どうか一人でも多くの方が、キリストの弟子となって、神からの祝福をうける者となりますように。イエス・キリストのお名前をとおしてお祈りいたします)