あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか(ルカ10:25~29)

(今回は、故意にキリストに議論をもちかける律法学者、についてふれたいと思います)

 

ルカによる福音書・10章の25~29節より

『すると(=キリストが弟子たちに、ご自身が救い主であるのをただしく見ているあなたがたはさいわいだ、と話していると)そこへ、ある律法学者(=律法を研究し説く者)が現れ、イエスを試みようとして(=議論をもちかけて、おそらくは恥をかかせようとして)言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。彼に言われた、「律法には(=旧約聖書にある神からの指針には)なんと書いてあるか。あなたはどう読むか(=キリストのほうで彼に質問を返し、試す格好になっています。要は早くも立場が逆転しています)」。彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ(申命記11:13)』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ(レビ記19:18)』とあります」。彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。すると彼は自分の立場を弁護しようと思って(=彼からすれば、“行いなさい” と言われたということは、これまでは行っていない、とイエスにうけとめられていることになります。そもそも彼は、イエスを議論にもちこんで、あげあしをとりたいのに、いまのままでは自分だけが試されていて、ある意味、彼のほうが恥をかかされています。こうした状況を打開して、なんとか議論にもちこみ、自分のただしさをしめそうとして)、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」』

 

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(律法学者がキリストを試そうとしているのに、またたくまに自分が試される格好になっています。彼のほうでも「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」と返して、なんとか自分をただしく見せようとしています。おそらく彼の中では、自分の身近な人たちや、シナゴーグ(=ユダヤ教徒の集会)の仲間には、親切にして愛しているという自負があったのだと思います。しかしキリストの「隣り人とはだれか」の答えは、彼がぐうの音もでないものでした。このつづきは次回見ることにします。どうか一人でも多くの方が、キリストのおことばに興味をいだきますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)