(今回は、キリストの死を変わらずに望んでいるユダヤ人たち、についてふれたいと思います)
『祭司長たちや下役(したやく)どもは(=キリストを捕らえて訴えているユダヤ人たち、またその配下たちは)イエスを見ると、叫んで「十字架につけよ、十字架につけよ」と言った(=ピラトが釈放したがっている一方で、彼らは処刑を願っています)。ピラトは彼らに言った、「あなたがたが、この人を引き取って十字架につけるがよい。わたしは、彼にはなんの罪も見いだせない(=ピラトは無実のキリストに対し、自分の手で処刑するのには気がひけています。そこで処刑するにしてもユダヤ人にやらせて、すこしでも関わるまいとしています)」。ユダヤ人たちは彼に答えた、「わたしたちには律法が(=神からの指針が)あります。その律法によれば、彼は自分を神の子としたのだから(=自分を神と等しい神の子と公言し、神を冒涜(ぼうとく)したのだから)、死罪に当る者です」。ピラトがこの言葉を聞いたとき(=ユダヤ人たちがあくまでも本気で殺そうとしているのを知ったとき)、ますますおそれ(=良心の呵責(かしゃく)をおぼえ、しかも神と関わりのある人物を殺すことになるかもしれないとおそれ)、もう一度官邸にはいってイエスに言った、「あなたは、もともと、どこからきたのか(=まさか本当に神の子などというのか。あなたの本当の生まれや出身はどこなのか)」。しかし、イエスはなんの答(こたえ)もなさらなかった』
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(ピラトがキリストを無実であると証言したにもかかわらず、ユダヤ人たちはあくまでもキリストの死を願い、十字架につけよ、とさけびました。ピラトはローマ総督なので、ユダヤ人(=祭司長たち)よりも権力を有していましたが、ユダヤの地を治めている手前、彼らに憎まれることもさけなければなりません。ある意味、ローマの法にもとづいて死刑にはできない思いと、ユダヤ人たちの処刑を望む気持ちとの、板ばさみ状態になっているのです。どうか一人でも多くの方が、キリストを信じて救われますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)