あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています(ルカ1:18~25)

(今回は、御使いであるガブリエルの話を信じないザカリヤ、についてふれたいと思います)

 

ルカによる福音書・1章の18~25節より

『するとザカリヤは(=ヨハネを子としてさずかるとつげられたザカリヤは)御使(みつかい)に言った、「どうしてそんな事が、わたしにわかる(=みとめられる)でしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています(=子を宿せる年齢ではありません)」。御使が答えて言った、「わたしは神のみまえに立つガブリエルであって、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために、つかわされたものである。時が来れば成就するわたしの言葉を(=神からたくされたことばを)信じなかったから、あなたはおしになり(=ことばがしゃべれなくなり)、この事の起る日まで、ものが言えなくなる」。民衆は(=ユダヤ人は)ザカリヤを待っていたので、彼が聖所内で(=エルサレム神殿の聖所で)暇(ひま)どって(=てまどって)いるのを不思議に思っていた。ついに彼は出てきたが、物が言えなかったので、人々は彼が聖所内で(=神からの)まぼろしを見たのだと悟った。彼は彼らに合図をするだけで、引きつづき、おしのままでいた。それから務(=祭司としてのつとめ)の期日が終ったので、家に帰った。そののち、妻エリサベツはみごもり、五か月のあいだ引きこもっていたが、「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥(=子をさずからないことは、当時は神から祝福されていないとの考えがありました)を取り除くために、こうしてくださいました」と言った』

 

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(ガブリエルの話を信じなかったザカリヤは、ヨハネが産まれるまでことばがしゃべれなくなりました。たとえば旧約聖書にも、高齢のアブラハムが(=イスラエル民族の祖(そ)である人物が)子をさずかっていませんでしたが、神のみわざによってイサクをさずかりました。もちろんザカリヤはこのできごとを知っていたのです。どうか一人でも多くの方が、神のみわざを信じていけますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう(ルカ1:8~17)

(今回は、キリストの先駆者としてのヨハネの誕生に関する預言、についてふれたいと思います)

 

ルカによる福音書・1章の8~17節より

『さてザカリヤ(=アビヤの組の祭司)は、その組が当番になり神のみまえに祭司の務(つとめ)をしていたとき、祭司職の慣例(かんれい)に従ってくじを引いたところ、主の聖所(せいじょ=エルサレム神殿内の神聖な場所)にはいって香(=神への奉仕としてこう)をたくことになった。香をたいている間、多くの民衆は(=ユダヤ人は)みな外で祈っていた。すると主の御使(みつかい)が現れて、香壇(こうだん)の右に立った。ザカリヤはこれを見て、おじ惑い(=取り乱し)、恐怖の念に襲われた。そこで御使が彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈(いのり)が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネ(=この名には、神は恵み深い、という意味があります)と名づけなさい。彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。彼は主のみまえに大いなる者となり(=キリストの先駆者となり、人々にバプテスマ(=水をもちいた罪の清め)をさずけ)、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず(=これは神のために身を聖別(=きよめ分かたれた者として献身)するときのとりきめです(民数記6:2~3))、母の胎内にいる時からすでに聖霊(=神の霊)に満たされており、そして、イスラエルの多くの子らを(=神の民としてのイスラエルユダヤ人)を)、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。彼はエリヤ(=かつて神に遣わされた預言者)の霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父(=父親)の心を子に向けさせ(=聖書のおしえをもって育てさせ(エフェソ6:4))、逆らう者に(=神に不従順な者に)義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう(=キリストをうけいれるための準備をさせるだろう。なおこれはマラキ書4:5~6の成就です)」』

 

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(この時点ではまだキリストはお生まれになっていません。先にヨハネが生まれ、まずキリストの宣教がうけいれやすくなるための活動をとることになります。どうか一人でも多くの方が、キリストに興味をもって聖書を手にとりますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります(ルカ1:1~7)

(今回は、この福音書は、ルカがローマの高官宛てに書いたものとしてつづられている、ということについてふれたいと思います)

 

※なお今日から “ルカによる福音書” にはいりますが、当時のユダヤ人が住んでいる地域は(=現在のイスラエルの辺りは)、ローマ帝国支配下にありました。キリストはこの地にユダヤ人としてお生まれになり、ユダヤ人に宣教をしていくことになります。この時代背景をおさえておくと、理解の手助けとなります。

 

ルカによる福音書・1章の1~7節より

『わたしたちの間に成就された出来事を(=キリストがユダヤ人の住む地域でなさったできごとを)、最初から親しく見た人々であって(=キリストが宣教をはじめたときからよく知る目撃者であり)、御言(みことば=キリストがお語りになったことば)に仕えた人々が伝えたとおり物語に(=書物に)書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、テオピロ閣下(=ルカと親しい関係にあるローマの高官である人物)よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献(けん)じる(=さしあげる)ことにしました。すでにお聞きになっている事が確実であることを(=すでにあなたがキリストについて聞いていることの、そのたしかさを)、これによって十分に知っていただきたいためであります。ユダヤの王ヘロデ(=ローマ公認の当時のユダヤの王ヘロデ)の世に、アビヤの組(=ユダヤの地のエルサレム神殿での、神への礼拝奉仕にたずさわる24個の組の一つ(歴代志上24:7~18))の祭司(さいし=神に礼拝や供え物をささげる人)で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家(=代々祭司が選ばれる家系で、先ほどのアビヤもこのアロンの子孫です)の娘のひとりで、名をエリサベツといった(=この夫婦が、のちのバプテスマ(洗礼者=水をもちいて罪を清める者)のヨハネを子としてさずかります。このヨハネが神によって、キリストよりも少し前に遣わされて、キリストの宣教がうけいれられやすいように、その道をととのえます)。ふたりとも神のみまえに正しい人(=信仰者)であって、主の戒(いまし)めと定めとを(=いわゆる律法を)、みな落度なく行っていた。ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていた』

 

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(ルカはテオピロ宛てにこの福音書を書いています。おそらくこのようにキリストについて細かく記したものを送るのですから、テオピロはすでに信仰をもっていたか、あるいはキリストに関することを強くもとめていたものと思います。また彼のテオピロという名にも、“神に愛された者” といった意味がこめられています。どうか一人でも多くの方が聖書に興味をもって、手にすることとなりますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている(ヨハネ21:24~25)

(今回は、ヨハネがキリストについて書いた福音書は、すべて真実である、ということについてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・21章の24~25節より

『これらの事について(=キリストがなさった神のみわざや、お語りになったことについて)あかしをし、またこれらの事を書いたのは(=ヨハネによる福音書として書きのこしたのは)、この弟子(=ヨハネ)である。そして彼(=ヨハネ自身)のあかしが真実であることを、わたしたちは(=当時キリストとともに過ごし、復活を目の当たりにした者たち。また当時のヨハネをとおしてキリストを信じるにいたった者たち。さらに広い意味では、キリストを信じることで聖霊をさずかった今のわたしたちは)知っている。イエスのなさったことは(=病のいやしなどの神のみわざは)、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う(=キリストが人々にしめされた神の愛や恵みはあふれるほどであり、こうした福音書をもっても書ききれないということです)』

 

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(キリストは地上の生涯において、ご自身が世の救い主であるのをしめされ、また恵み豊かな神をあらわされました。そして昇天後に神の右の座につかれている今も、わたしたちにおあたえになった聖霊をとおしてはたらかれています。これらのことを証ししている聖書は、神の霊感によって書かれており(=テモテ2の3:16)、神の権威がすみずみまで行きわたっている真実の書物なのです。どうか一人でも多くの方が、わたしたちの王であられるキリストを信じますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか(ヨハネ21:22~23)

(今回は、ペテロにはペテロの信仰の歩みがあるとつたえるキリスト、についてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・21章の22~23節より

『イエスは彼に(=弟子のヨハネの将来を尋ねたペテロに)言われた、「たとい(たとえ)、わたしの来る時まで(=昇天後に再び天から来るときまで。信者にとっての携挙(けいきょ)のときまで(テサロニケ一・4:15~17))彼が(=ヨハネが)生き残っていることを、わたしが望んだとしても(=仮に望んだとしても)、あなたにはなんの係わりがあるか(=ペテロにはペテロの信仰の歩みがあり、神がそれを用意されるのだから、ヨハネがどのようにみちびかれて歩んでいくのかは、あなたにはかかわりのないことだ)。あなたは、わたしに従ってきなさい(=したがいつづけなさい)」。こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが(=キリストがペテロを諭(さと)すために語った内容が、誤(あやま)ったうわさとなって)、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである(=ペテロにはペテロの歩みがあるのであり、仮にキリストがヨハネに対して、彼が死なないように願ったところで、それはあなたには関係がないと、たとえ話をして説明されました。なお実際のヨハネもすでに亡くなっています)』

 

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(キリストにしたがっていく過程で、それぞれの信者がどうみちびかれていくのかは、神がおきめになることです。ですから、その歩みがどうなっていくのかは本人にかかわりがあり、他者には関係がありません。わたしたちは神を信じて、自分に与えられた道を歩んでいくまでなのです。どうか一人でも多くの方が、キリストにしたがいつづけていきますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう(ヨハネ21:18~21)

(今回は、ペテロの殉教を預言されるキリスト、についてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・21章の18~21節より(以下はキリストのおことばです)

『よくよくあなたに(=弟子のペテロに)言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯(=腰のおび)をしめて、思いのままに歩きまわっていた(=思いのままに伝道もしていた)。しかし年をとってからは(=年をとってからの死に際(ぎわ)には)、自分の手をのばすことになろう(=手を伸ばされて、自由をうばわれるだろう)。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ(=縄(なわ)をかけ)、行きたくない所へ(=処刑の場へ)連れて行くであろう」。これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである(=キリストは、ペテロが殉教をとげる(じゅんきょう=信仰のために殺される)預言をされました。それも、手を伸ばす、とあるので、磔(はりつけ)の刑を示唆(しさ)されたのかもしれません)。こう話してから、「わたしに従ってきなさい(=したがいつづけなさい)」と言われた。ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子(=ヨハネ)がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のとき(=キリストが捕らえられるまえの、最後の晩餐(ばんさん)のとき)イエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか(=これはキリストを売りわたしたユダのことです)」と尋ねた人である。ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか(=ペテロは、それならヨハネはどうなるのですかと尋ねています)」』

 

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(キリストは、ペテロの死に方について話されました。おそらくペテロもそれを感じとったので、それならヨハネはどうなるのかと尋ねたのだと思います。いずれにしても信者が死をむかえるというのは、その人が神からあたえられたはたらきをすべてやりおえたことを意味しています。その中でもとくにペテロのような殉教をもって、神の栄光を世に強くあらわしながら閉じられることもあるのです。どうか一人でも多くの方が、神の栄光をあらわしていけますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」(ヨハネ21:16~17)

(今回は、ペテロの愛を三度たしかめられるキリスト、についてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・21章の16~17節より

『またもう一度彼に(=以前キリストを見捨て、心にしこりをのこしているペテロに)言われた、「ヨハネの子シモン(=ペテロ)よ、わたしを愛するか(=キリストはここでもアガパオーという愛のことばをもちいて、わたしを見返りをもとめない一方的な愛で愛するかと尋ねています)」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです(=キリストを見捨てたペテロには、アガパオーという一方的にそそぐ愛のことばでは返答できません。そこでフィレオーという友情の愛を指すことばにおきかえています。ペテロとしては、こうしてキリストや神からの愛をうけていることで、これに対してフィレオーという相互関係の中で成り立つ愛のことばを返しているのです)」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい(=キリストを信じている者たちをみちびき、その模範(もはん)となりなさい)」。イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか(=ここにきてキリストもフィレオーをもちいました。キリストを見捨てたペテロには、アガパオーでは返答できません。彼に言えるのは、キリストからの愛をうけているこの状態にあって、それに応えるかたちでのフィレオーなのです。この気持ちをうけてキリストも、フィレオーをもちいられました。ただキリストからのペテロに対する愛はアガパオーなのです)」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので(=一度だけでなく、念を押すように三度も尋ねられたので。なおこの三度というのは、ペテロがキリストの他人のふりをした回数と同じなので、このことが彼の頭にもよぎったものと思います)、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは(=キリストの愛をうけていることで、わたしがあなたを愛していると返事できていることは)、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい(=キリストを信じている者たちをみちびきなさい)」』

 

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(キリストは、ペテロが心をいためることになる三度の問いを、あえて尋ねられました。しかしそのどれもにフィレオーの愛で応答したペテロに失望されたわけではありません。それが証拠に信者をみちびくように任せておられますし、そもそも私たちは皆がキリストの十字架による罪のあがない、その愛にあずかる者たちであり、このキリストからのアガパオーの愛に応答するかたちで、フィレオーによる愛をしめしていけるなら、キリストはそれをうけとってくださるのです。そしてペテロも、わたしの羊を養いなさい、と言われたことが、のちのちにおいても糧(かて)となったものと思います。どうか一人でも多くの方が、キリストからの恵みにあずかりますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)