(今回は、救われるためのせまい戸口をとおるには、世にながされずにただしい信仰をもたなければならない、ということについてふれたいと思います)
・ルカによる福音書・13章の22~27節より
『さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレム(=ユダヤ人にとっての神殿がある中心地)へと旅を続けられた。すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。そこでイエスは人々に(=あつまっているイスラエルの民(ユダヤ人)に)むかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい(=ユダヤ人指導者や周囲にながされずに、少数であることにも勇敢さをもちつづけて、神の国に通じているせまい戸口にはいりなさい)。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから(=神の国にはいりたくても、周囲にあわせていればはいれると勘違いしていて、あるいは周囲からはみでることをおそれて同調圧力に屈していて、ただしい信仰をもてずにはいれない人が多いのだから)。家の主人が(=キリストが)立って戸を閉じてしまってから(=神が人にあたえている信仰をもつための猶予(ゆうよ)がすぎてからでは)、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても(=仮に自分たちの信仰がまちがっていたと知り、必死に戸をたたいても)、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない(=キリストをメシア(救い主)と信じなかったあなたがたとは、いっさいのつながりをもっていない)』と言うであろう。そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました(=実際、当時のユダヤ人はキリストと食事をしたり、その教えやみわざ(奇跡)を見聞きしたりしていました)』と言い出しても、彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない(=あなたがたと親密だったことはないし、いっさいのつながりをもっていない)。悪事を働く者どもよ(=信仰があるふりをして、実際は神ではなく悪に属している者たちよ)、みんな行ってしまえ』と言うであろう』
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(当時のキリストは、ユダヤ人指導者たちから敵視されており、このキリストにしたがう者たちもまた、敵視される対象になっていました。キリストへの信仰を公(おおやけ)にするなら、シナゴーグ(ユダヤ教徒の共同体)から追いだされ、村八分にされることもあったのです。こうした状況においても少数であるのをおそれずに、勇敢にありつづけてせまい戸口をとおりなさい、とキリストは語っておられます。どうか一人でも多くの方が、神が猶予をあたえてくださっているあいだに信仰にいたりますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)