あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません(ヨハネ2:1~7)

(今回は、神のみこでありキリストであるご立場からのイエスのおことば、についてふれたいと思います)

 

ヨハネによる福音書・2章の1~7節より

『三日目にガリラヤのカナ(=町の名)に婚礼があって、イエスの母(=マリア)がそこにいた。イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったので、母は(=この婚礼を主催する側にいた母は)イエス(=息子)に言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました(=ぶどう酒をなんとか準備するようにとの思いでのべたものと思います)」。イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか(=ここでのイエスは息子ではなく、神のみこキリストとしてのご立場からことばをかえされています。キリストは永遠のむかしから神とおられるのですから、この方に対してマリアは、母と息子といったかかわりをもっていません)。わたしの時は、まだきていません(=わたしが十字架によってあなたがたの罪をあがなう、その本当に必要なはたらきをするべきときは、まだきていません)」。母は僕(しもべ)たちに言った、「このかたが(=キリストであるこのかたが)、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。そこには、ユダヤ人のきよめのならわし(=習慣)に従って、それぞれ四、五斗(=1斗(と)が約18リットルなので70~90リットル)もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた』

 

――――――――――――――――――――

(マリアはイエスの母なので、母親としての感情がある点ではわたしたちとちがいますが(=複雑な感情をいだいてしまうこともあるでしょうが)、しかしキリストに罪をあがなってもらう、その神の恵みをさずかる側にいるという点ではわたしたちと同じです。このことは上記でいうなら、キリストが「母よ」ではなく「婦人よ」と呼びかけているように、一人の女性としてみていることにもあらわれているものと思います。それと聖書には「わたしの時」とキリストがのべられることがありますが、これは十字架にかけられて、わたしたちの罪をあがなってくださるときのことをさしています。どうか一人でも多くの方が、聖書にふれて、キリストを自分の救い主だとうけいれることができますように。イエス・キリストのお名前をとおしてお祈りいたします)